――曳馬城から出世城へ。
徳川家康様を鍛え、江戸へ通じた城のすべて――
私、古天明平蜘蛛がご案内いたします。
浜松城と申しますと、まず「徳川家康様の城」「出世城」という名で広く知られております。
ですが実際には、この城の魅力はそれだけではありません。
浜松城は、前身である曳馬城の中世的な歴史を受け継ぎつつ、家康様の時代に戦国最前線の拠点となり、その後は近世城郭として整えられ、さらに江戸時代には歴代の譜代大名様が入って藩政の中心となった、たいへん重層的な歴史を持つ城です。
曳馬城から浜松城への改称、家康様の17年間、三方ヶ原の戦いでの大敗、堀尾吉晴様による近世城郭化、そして「出世城」と呼ばれるまでの歩みは、まるで一つの城に日本史の流れが折り重なっているかのようです。
現在の浜松城は、1958年に再建された復興天守と、2014年に復元された天守門でよく知られております。
しかし、さらに注目すべきは、そこに残る古い石垣と、台地の端を活かした縄張の妙です。
浜松市の解説では、天守曲輪は東西56メートル、南北68メートルの複雑な多角形をなし、その形は自然地形を色濃く反映しているとされます。また、石垣には横矢掛の意図が読み取れる屏風折・出隅・入隅などが見られ、初期近世城郭として重要な特色を示しております。
つまり浜松城は、ただ美しい天守を眺める城ではなく、戦う理屈が今も地形の中に残る城なのです。
【浜松城 基本情報】
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 〒430-0946 静岡県浜松市中央区元城町100-2 |
| 電話 | 053-453-3872 |
| 開館時間 | 8:30〜16:30(最終入場16:20) |
| 休館日 | 12月29・30・31日 |
| 入場料 | 高校生以上200円・中学生以下無料 |
| 訪問日 | 2026年1月 |
| アクセス | 浜松駅バスターミナル13番のりば「浜松城公園入口」下車 |
| 車:国道152号北進→市役所前の北の信号を左折 | |
| 駐車場 | 浜松城公園駐車場(有料)より天守まで徒歩約8分 |
| 見どころ | 野面積み石垣・天守曲輪の多角形縄張・天守門(2014年復元) |
| 備考 | 「出世城」として知られる国指定史跡。日本100名城のひとつ |
| 公式 | https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamajocastle/ |
アクセス:浜松駅バスターミナル13番のりばから「浜松城公園入口」下車。車なら国道152号を北進し、「市役所前」の北の信号を左折。浜松城公園駐車場から天守までは徒歩約8分です。
*100名城スタンプの設置場所はお城の前の「天守門」内部となります。
訪問日:2026年1月
一、浜松という土地は、なぜ城の地として選ばれたのか
浜松城を語るには、まず浜松という土地そのものの意味を見なければなりません。
浜松は遠江国の要地であり、東西交通の大動脈である東海道に連なり、さらに内陸・海岸・河川の交通とも結びつく場所でした。中世から近世にかけて、この地域を押さえることは単に一つの城を持つことではなく、遠江支配の中核を押さえることを意味しておりました。浜松城下と浜松宿が重なり合いながら発展したことからも、城と町と交通路が一体となって都市が形成されていったことがわかります。
この地は、軍事面でもたいへん重要でした。西には三河、東には駿河、そのさらに向こうには甲斐や信濃の情勢も関わってまいります。北には三方ヶ原台地、南には平野部が広がり、敵の進軍路を見極め、また自軍の展開拠点を築くには適した地形でした。
家康様が岡崎から本拠を移した背景には、今川氏支配から奪取した遠江の安定化だけでなく、武田氏との緊張関係の中で前線司令部を必要とした事情がありました。浜松は、まさにその条件にかなう場所だったのです。
浜松城もまた、偶然そこに築かれたのではありません。この土地の交通・軍事・政治の条件が重なり合った結果、歴史の表舞台に押し上げられた城だったのです。
二、浜松城の前身――曳馬城とは何だったのか
浜松城の前身は、一般に曳馬城(引馬城)と呼ばれる城です。15世紀頃にはすでにこの地域に城郭が存在していたとされ、16世紀前半には今川氏支配下で飯尾氏が城主を務めていたことが知られております。つまり、家康様が入る以前から、この地はすでに地域支配の拠点であり、中世権力の中核だったのです。
当時の曳馬城は、現在私たちが思い浮かべる石垣づくりの近世城郭ではなく、土塁・堀・曲輪を中心とする中世的城郭であったと考えられております。曳馬城は「方形曲輪が並列的に並ぶ」中世的性格を持っていたとされ、これは後の近世城郭のように中心へ向かって防御が重なる構造とはやや異なります。つまり曳馬城は、のちの浜松城と連続しつつも、明らかに別の時代の軍事思想を反映した城だったのです。
飯尾連龍様のお名前は、この曳馬城を語るうえで避けて通れません。
今川氏配下の国衆として遠江支配を担っていた飯尾氏でしたが、桶狭間合戦以後、今川氏の権威が揺らぐ中で立場は不安定になってゆきます。戦国期には、主君の力が弱まれば家臣や国衆もまた疑念と緊張のただ中へ置かれます。曳馬城もまた、そうした動揺の最前線にあったのです。曳馬城の歴史を見ますと、浜松城の始まりはすでに戦乱と権力変動の中にあったことがよくわかります。
三、家康様の浜松入り――なぜ岡崎から移ったのか
徳川家康様は、永禄11年(1568)に遠江へ進出し、今川領の制圧を進めました。その後、元亀元年(1570)に岡崎城を嫡男・松平信康様へ任せ、自らの本拠を曳馬へ移します。そしてこの城を拡張して浜松城と改めました。この改称と城域拡張は、浜松城史の大きな転機です。
なぜ家康様は、あえて本拠を岡崎から前へ出したのでしょうか。
その理由は、第一に遠江支配を安定させるため、第二に武田氏への備えでした。岡崎は三河経営には適しておりましたが、遠江・駿河との最前線に立つには距離がありました。浜松ならば、遠江の中心近くで兵を動かしやすく、また敵情の変化にも迅速に対応できます。家康様の浜松入りは、防御的判断であると同時に、積極的に前へ出る意思表示でもあったのです。
この本拠移転は、単なる軍事行動にとどまりません。家康様は城の整備と並行して、家臣団を配置し、城下町形成を進め、遠江支配の行政的骨組みを作ってゆきました。鍛冶町・肴町・伝馬町・連尺などの町名は、その名の通り職能や流通機能と結びついております。これは家康様が城を単なる軍事拠点としてではなく、領国経営の中心都市として育てようとしていた証です。
四、家康様の浜松時代17年――この城で何が鍛えられたのか
家康様が浜松城に在したのは、1570年から1586年までのおよそ17年間です。この期間は、姉川合戦、三方ヶ原の戦い、長篠合戦、本能寺の変、小牧・長久手合戦へと連なる激動の前半生にあたり、浜松城はその中核拠点でした。
この17年は、家康様にとって「栄光の17年」ではありません。
むしろ、敗北・苦悩・学習・再起の17年でした。岡崎時代の家康様は三河統一を目指す若き大名であり、のちの江戸時代の家康様は天下人です。その中間に位置する浜松時代は、最も不安定で、しかし最も成長の大きい時期でした。ここで家康様は、戦場での機動、同盟維持、領国経営、家臣統率、撤退判断、再起のための精神力を身につけてゆきます。ゆえに浜松城は「成功の城」というより、大成に至るまでの鍛錬の城なのです。
また、家康様がここで培った経験は、のちの慎重な政治姿勢にもつながったと見ることができます。拙速に大勝負へ出ず、必要とあらば耐え、時機を待ち、確実に一歩ずつ盤石を築く姿勢は、浜松時代の苦闘を抜きにしては語れません。浜松城を歩くと、そこに華やかな征服者の気配よりも、むしろ鍛えられた人の息づかいを感じます。
五、三方ヶ原の戦い――浜松城最大の危機
浜松城史において最大の緊張が走ったのは、申すまでもなく元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いです。武田信玄様の西上作戦の中で、徳川・織田連合に対する大きな圧力が遠江へ及び、浜松城はその最前線に立たされました。
武田軍は大井川を越えて遠江へ進出し、浜松周辺を脅かしました。織田信長様は家康様に岡崎へ退くことを勧めたともされますが、家康様は浜松城に踏みとどまります。
そして三方ヶ原台地で武田軍と対峙し、結果として大敗を喫しました。この敗戦が家康様にとって非常に大きな教訓となったことは、浜松城の歴史を語るうえで欠かせません。
この戦いの重みは、単に一度負けたという事実だけではありません。
浜松城はこのとき、徳川家の命脈をつなぐ最後の拠点でした。
もし退却に失敗していれば、家康様の後の歴史そのものが変わっていた可能性もあります。
浜松城へ戻った家康様にまつわる「しかみ像」や、あえて城門を開いて武田軍を誘ったという伝承は有名ですが、伝承には後世の脚色もあるため、そのまま史実と断定するには慎重さが必要です。
ただし、浜松城が極度の緊張の中で家康様を受け入れ、徳川家再建の拠点となったことは間違いありません。
六、敗北が家康様にもたらしたもの
戦国の名将を語るとき、人はつい勝利の数を数えたくなります。
ですが浜松城の歴史が教えるのは、勝利だけが人を大きくするのではない、ということです。三方ヶ原での敗北のあと、家康様は浜松城を拠点に体制の立て直しを図ります。損耗した兵力の再編、家臣団の結束の維持、周辺勢力との調整、そして何より、二度と同じ誤りを繰り返さないための戦略的成熟が求められました。浜松城はその再出発の場所だったのです。
その後の長篠合戦では、織田信長様との連携のもと、武田勝頼様に対して勝利を収めます。この変化は、単に兵力差の問題ではなく、家康様が三方ヶ原で学んだ「敵の強みを正面から受けず、体制と連携で補う」という発想が活きた結果とも考えられます。浜松城は敗北の記憶を抱えつつ、その敗北を次の勝利へ転じるための知恵を生んだ城でした。
ここに浜松城の格別な重みがあります。
この城は、成功の絶頂を示す城ではなく、失敗を抱えてなお前へ進んだ証拠として立っているのです。私はそこに、たいへん心を打たれます。
七、浜松城の縄張――なぜこの城は守りに強かったのか
浜松城の地形的特徴として重要なのは、台地端に築かれた点です。現在の天守曲輪は複雑な多角形をなし、その形状は自然の山の形を反映しているとされます。つまり浜松城は、平地の上へ人工的に整然と築いた城ではなく、もともとの地形のくせを活かして防御力を高めた城なのです。
天守曲輪の東には大手である天守門、西には搦手である埋門があり、出入口の配置そのものに防御思想が見られます。さらに石垣には屏風折・出隅・入隅・邪といった複雑な折れがあり、これらは敵が接近したとき、側面から攻撃を加える横矢掛のための工夫でした。単に石を積んで高くしただけではなく、視界の死角を減らし、攻め手を複数方向から射撃できるよう設計されていたのです。
また、天守曲輪周辺には土塁もめぐっていたと考えられております。石垣だけが城の防御ではありません。土塁、堀、段差、門、曲輪の重なり、そして地形そのものが一体となって城を守るのです。浜松城は、戦国的な土の城から近世的な石の城へ移り変わる過程をよく示す城であり、その過渡期の魅力が今もはっきり残っております。
八、天守曲輪・本丸・二の丸――浜松城の中枢構造
浜松城で中心となるのは、現在の天守が立つ天守曲輪です。天守曲輪は本丸とは別区画として築かれており、この点も浜松城の特徴の一つです。一般に本丸の中心に天守を置く城の印象を持たれる方も多いですが、浜松城では天守曲輪という独立性の高い防御区画が形成されております。これは軍事的にも興味深い点で、最後の拠点をより厳重に守ろうとする意図が読み取れます。
二の丸は、政務・居館・儀礼の場として機能したと見られます。二の丸御殿跡の存在からも、藩政期には城主の政治・生活の中心となったことがうかがえます。本丸や天守曲輪が軍事的象徴性を帯びるのに対し、二の丸は日常的な政務と統治の現場だったのでしょう。
さらにその周辺には三の丸や家臣屋敷、町屋が連なり、城と町が連続する構造を成していました。つまり浜松城は、「天守だけ」が城ではありません。曲輪の重層、家臣団の配置、町の成立まで含めて初めて浜松城なのです。城を一枚の写真で見るだけではわからない、この広がりのある歴史空間こそが浜松城の真骨頂です。
九、石垣の城としての浜松城――野面積みの迫力
浜松城の印象を決定づけているものの一つが、いわゆる野面積み石垣です。現在も残る石垣は築城当時の古い石垣を含むとされ、自然石を大きく加工せずに積み上げた荒々しい表情を見せております。浜松城はこの石垣ゆえに、整いすぎず、むしろ戦国の空気を今へ伝えているように感じられます。
天守曲輪の石垣は、上半部に石を積む「鉢巻石垣」に分類できるとされます。これは全面を高石垣で固めた後世の完成度の高い城郭とは異なる、初期近世城郭らしい姿です。ここにも浜松城が、戦国の土の城と江戸の完成された石の城のあいだに位置していることが表れております。
浜松城の石垣が面白いのは、その古さが防御技術の発展段階を見せてくれる点です。屏風折、出隅、入隅、邪といった複雑な平面形は、戦うための石垣であることを雄弁に物語ります。見上げれば美しい、調べれば合理的、歩けば地形と一体。浜松城の石垣は実に見事です。
十、家康様のあと、浜松城はどう変わったのか
天正14年(1586)に家康様が駿府へ移ったのち、浜松城は次の時代へ入ります。まず菅沼定政様が城代的に入り、その後、1590年の徳川家関東移封によって、豊臣系の堀尾吉晴様が入城いたしました。この交代は、浜松城にとって決定的な転換点でした。
堀尾吉晴様の時代、浜松城は本格的な近世城郭として整備が進んだと考えられております。現在残る石垣の多くはこの時期に関わる可能性が高く、天守曲輪の整備も近世化の一環として理解されております。つまり家康様の浜松城が「戦国の拠点」であったのに対し、堀尾様の浜松城は「統治のための近世城郭」へ大きく踏み出したのです。
この変化はたいへん重要です。
浜松城は家康様の思い出の城で終わらず、その後も時代に合わせて姿を変え続けた城だったのです。だからこそ浜松城は、戦国の城としても、近世藩政の城としても見る価値があります。
十一、歴代城主――浜松城を通った人々
浜松城の歴史をさらに豊かにしているのが、江戸時代の歴代城主様の多さです。家康様以来、浜松城には数多くの城主が入り、そのうち江戸時代だけでも多くの譜代大名様が交代で在任したことが知られております。
代表的な方々として、徳川家康様、菅沼定政様、堀尾吉晴様、堀尾忠氏様、松平忠頼様、水野重仲様、高力忠房様、松平乗寿様、太田資宗様、太田資次様、青山宗俊様、青山忠雄様、青山忠重様、松平資俊様、松平資訓様、松平信祝様、松平信復様、松平資昌様、井上正経様、井上正定様、井上正甫様、水野忠邦様、井上正春様、井上正直様などのお名前が見えます。
これほど城主交代が多いのは、浜松城が江戸幕府において譜代大名の要地と位置づけられていたからです。
東海道沿いの重要地点であり、江戸と上方を結ぶ政治・交通の要衝でもある浜松は、信頼できる譜代大名様に任せるにふさわしい城でした。
そしてそこで実績を積んだ人物が、さらに幕府の要職へ進んでゆく例が少なくなかったのです。
十二、「出世城」とは何か――家康様だけではない意味
浜松城が「出世城」と呼ばれる理由は、単に家康様が後に天下人となられたからだけではありません。もちろんそれが第一の理由であることは間違いありません。
岡崎から浜松へ出て、三方ヶ原の敗北を味わい、それでも再起して、やがて駿府、江戸へと進む家康様の道筋は、まさに立身出世の典型として後世に映りました。
しかし第二の理由として、江戸時代の浜松城主には幕府中枢へ進む人物が多かったことが挙げられます。
とくに水野忠邦様はのちに老中として天保の改革を主導したことで著名ですし、浜松城主経験者の中には寺社奉行や老中など、重い役職へ進んだ方も少なくありませんでした。
ゆえに浜松城は、家康様一人の伝説だけでなく、制度としての出世とも結びつく城になったのです。
この二重の意味、
一つは天下人への出世、
もう一つは幕府官僚としての出世。
これが重なって、浜松城は名実ともに「出世城」と呼ばれるようになったのです。
十三、浜松城下町――城だけでなく町もまた歴史の主役
浜松城の魅力は、城郭単体に閉じません。
鍛冶町、肴町、伝馬町、連尺、板屋町、成子、早馬町などの名は、それぞれの町が職能や流通機能と深く結びついていたことを示しております。鍛冶町には鍛冶職人、肴町には魚商、伝馬町には交通業者など、城の周囲に必要な機能が集められ、都市としての浜松が形づくられていきました。
つまり浜松城とは、天守や門だけの歴史ではありません。
職人、商人、武士、農民、運送業者、寺社関係者、旅人。そうした多くの人々が城下で暮らし、働き、城を支えたのです。戦国の城が近世の城下町へ変わってゆく過程は、軍事施設が都市へと成長していく過程でもあります。浜松城を訪ねるとき、本丸や天守曲輪だけでなく、町名の痕跡に目を向けますと、城と町が一つの生命体のように結びついていたことが見えてまいります。
さらに浜松は東海道宿場町としても発展しました。城下町と宿場町という二つの顔を持った点が、浜松の都市史の大きな特徴です。江戸時代を通じてこの地が栄え続けたのは、単に城主の力だけでなく、交通と経済の拠点として機能し続けたからでした。
十四、近世から近代へ――廃城と再生
明治維新を迎えると、浜松城も全国の多くの城と同じく、旧来の軍事・藩政拠点としての役割を終えます。建物の多くは失われ、城域も変化しました。しかし浜松城は完全に忘れ去られたわけではなく、家康様ゆかりの地、また浜松の象徴として記憶され続けました。
現在の天守は1958年に再建された復興天守であり、天守門は2014年に復元されたものです。また、天守曲輪や石垣は史跡として保護され、発掘調査も重ねられております。つまり現在の浜松城は、かつての軍事拠点ではなく、歴史を体験し学ぶ場として新たな役割を担っているのです。
この点もまた、城の長い命を感じさせます。
城は戦のためだけに建ち、役目を終えれば消える。そう見えがちですが、浜松城は違います。
戦国の城、近世藩政の城、近代の記憶装置、現代の文化資源。
時代ごとに意味を変えながら、なお人を惹きつけ続けているのです。
十五、浜松城を歩くとき、何を見ればよいのか
浜松城を訪ねたとき、まず人は天守を見上げます。
それはもちろん間違いではありません。けれども、より深く味わうなら、次の五つをご覧になるとよろしいかと思います。
第一に、石垣の表情です。
自然石を活かした野面積みの荒々しさには、後世の整いすぎた城にはない魅力があります。
第二に、天守曲輪の形です。
まっすぐでも四角でもない多角形が、自然地形をそのまま防御へ変えております。
第三に、門の位置と動線です。
大手と搦手、進入路の曲がり、視界の切れ方などを見ますと、「攻めにくい城」であることが実感できます。
第四に、城の外の町の名前です。
鍛冶町、肴町、伝馬町などの名は、かつての城下の営みを今に伝えております。
第五に、三方ヶ原の記憶です。
浜松城は勝ち戦の城としてよりも、敗北を抱えて立ち直った城として見ると、いっそう深く胸に迫ります。
十六、古天明平蜘蛛としての感想
私、古天明平蜘蛛は、戦国の城を前にしますと、つい「誰が勝ったか」「誰が負けたか」ばかりに目が行きがちです。
けれども浜松城に立ちますと、それだけでは足りないと感じます。
この城が伝えているのは、勝利のまぶしさではなく、むしろ負けても折れないことの尊さです。
家康様はここで苦しみ、悩み、傷つき、それでも前へ進まれました。
その後の城主様たちもまた、浜松城を経てさらに重い役目へ進んでゆきました。
だから浜松城は、単なる名所でも、単なる家康様の記念碑でもないのです。
人を鍛え、次の段階へ押し上げる城。
それが浜松城なのだと思います。
石垣の折れひとつ、曲輪の段差ひとつにも、戦うための理由があります。
町名ひとつにも、暮らした人々の息づかいがあります。
そして三方ヶ原の風を思えば、城とは美しい建物ではなく、運命を受け止める器なのだと感じます。
浜松城は、まことに味わい深い城です。
十七、総まとめ――浜松城とはどのような城か
最後に、浜松城の本質をまとめます。
浜松城は、
もともとは中世の曳馬城として始まり、
家康様が1570年に入って拡張し、浜松城となり、遠江支配と武田氏対策の拠点となり、
三方ヶ原の戦いという最大の危機を経て、家康様の成長を支え、
その後、堀尾吉晴様らにより近世城郭化が進み、石垣と曲輪を備えた城へと成熟し、
江戸時代には多くの譜代大名様が城主となって藩政の中心を担い、
家康様と歴代城主様たちの履歴が重なって、出世城と呼ばれるようになった城です。
ゆえに浜松城は、
戦国の城であり、
家康様の城であり、
近世藩政の城であり、
城下町を生んだ城であり、
そして人の運を鍛えた城でもあります。
この城を見上げるとき、ただ「きれいな天守ですね」で終わってしまうのは、いささか惜しいことです。
その石垣の下には、曳馬城以来の中世の時間が重なり、
その曲輪の折れには、戦国の工夫が残り、
その町の名には、暮らした人々の記憶が宿り、
その歴史には、家康様の敗北と再起が刻まれております。
浜松城は、出世城です。
しかしそれは、何の苦労もなく上へ昇る城ではありません。
苦難を越えた先にこそ道が開けることを教えてくれる、まことに深い城です。