
琵琶湖底に眠る石垣が語る、麒麟がきた武将の栄光と終焉

📌 この記事でわかること
- 明智光秀様が築いた坂本城の歴史と概要
- 坂本城跡の現地訪問レポート(写真付き)
- 近年の発掘調査で琵琶湖沿いに発見された石垣の様子
- 観光・アクセス情報(住所・駐車場・電車・徒歩ルート)
- 戦国茶器キャラクター「古天明平蜘蛛」による歴史解説と感想
🗾 現地訪問情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 訪問日 | 2026年2月 (晴天・快晴) |
| 滞在時間 | 約1時間30分〜2時間(石垣見学ルート含む) |
| アクセス(電車) | JR湖西線「比叡山坂本駅」より徒歩約15〜20分 / 京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」より徒歩約20分 |
| アクセス(車) | 名神高速道路「京都東IC」より約30分 / 国道161号線沿い |
| 駐車場 | 坂本城跡公園駐車場あり。普通車10台。周辺のコインパーキングを利用可能(日吉大社・坂本周辺に複数あり) |
| トイレ | 公園内にトイレあり。 |
| 撮影可否 | 撮影可(ただし湖岸の石垣エリアは立入禁止) |
| 迷いやすい点 | 城址公園を中心に案内板・石碑は住宅街の中に点在しております。琵琶湖沿いに発見された石垣は「石垣見学ルート」の木製標識を目印に歩くとよい。湖岸の石垣は柵越しに見学可能。 |
📋 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 史跡名 | 坂本城跡(さかもとじょうあと) |
| 別称 | 明智城・比叡山坂本城 |
| 所在地 | 滋賀県大津市下阪本三丁目〜一丁目周辺 |
| 城の種別 | 平城(湖城・水城) |
| 築城者 | 明智光秀様 |
| 築城年 | 元亀2年(1571年)9月頃 |
| 廃城年 | 天正10年(1582年)山崎の戦い後 |
| 国指定史跡 | 大津市指定史跡(国史跡指定申請中) |
| 見どころ | 石碑・説明板・石垣見学ルート・琵琶湖湖岸の水中石垣 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | 終日見学可(湖岸エリアは立入禁止区域あり) |
🗺 観光案内(アクセス詳細)
■ 電車でのアクセス
| 路線 | 最寄り駅 | 徒歩 |
|---|---|---|
| JR湖西線 | 比叡山坂本駅 | 約15〜20分 |
| 京阪石山坂本線 | 坂本比叡山口駅 | 約20〜25分 |
京都駅からJR湖西線に乗ると「比叡山坂本駅」まで約15分。駅を出て湖方向(東方向)に歩き、住宅街を抜けた先に城跡の石碑や説明板が点在しています。
■ 車でのアクセス
| 出発地 | ルート | 所要時間 |
|---|---|---|
| 京都東IC(名神) | 国道161号線経由・北上 | 約30分 |
| 湖西道路「真野IC」 | 国道161号線南下 | 約10分 |
| 大津市中心部 | 国道161号線北上 | 約20分 |
■ 駐車場について
坂本城跡公園駐車場あり。普通車10台。以下の周辺施設の駐車場も参考に活用してください。
| 駐車場 | 徒歩距離 | 備考 |
|---|---|---|
| 日吉大社参拝者駐車場 | 約15分 | 参拝者向け、有料 |
| 坂本周辺コインパーキング | 5〜10分 | 複数箇所あり |
| 里坊群近隣の路肩スペース | 要確認 | 路上駐車は不可 |
■ 琵琶湖沿いに沈む石垣へのルート








■ 注意事項
- 湖岸の石垣は文化財保護法により立入禁止・接触禁止。ロープ・テープの外から見学してください。
- 石垣の石を動かす・持ち去るなどの行為は法律で禁止されています。
- 城跡は住宅街の中に点在しており、地域住民の生活エリアです。騒音・ゴミ等に注意してください。
- 湖岸エリアは地面が濡れていることがあります。滑りやすい靴は避けてください。
- 季節によっては草が茂り、経路が分かりにくくなります。事前にマップを確認の上お越しください。
📍 現地写真と見どころ
見どころ①:坂本城跡の石碑と案内板
住宅街の一角に静かに立つ石碑「坂本城址」と、大津市が設置した金属製の説明板は、この地がかつて光秀様の居城であったことを静かに伝えています。説明板の下部には「Sakamoto-jo Castle Ruins」と英語の表記もあり、外国人観光客への配慮も見られます。
石碑には苔がむしており、長い年月の重みを感じさせます。案内板には坂本城の歴史的概要が記され、大津市のロゴマーク「OTSU」が刻まれています。

見どころ②:明智光秀様の像
城跡の一角には、光秀様の石造の武将像が建立されています。鎧兜をまとった凛々しい姿で琵琶湖方向を見据え、台座の前には黒い石板に光秀様に関する詩歌と由緒が刻まれています。右側の石板には「われならではたれかは結ぶ 一松心 通ひ来て 忘心の清風」と記された和歌が刻まれており、光秀様の人物像の一端を偲ばせます。
像の周囲は自然石で囲まれ、素朴ながら誠実な雰囲気の聖地となっています。

見どころ③:石垣見学ルート(町中に残る石垣)
木製の標識に「坂本城址 町中に残る石垣見学ルート」と記されており、矢印に沿って歩くと住宅の基礎や塀に転用された坂本城の石垣を見学できます。坂本城が廃城になった後、その石垣の石は周辺の寺社や民家の基礎として再利用されたと伝わっており、今もその一部が街のいたるところに残っています。
標識は色あせた木製で、長年にわたって設置されてきたことが伝わります。ルートに沿って歩くことで、かつての城郭の広大さを想像することができます。

見どころ④:琵琶湖岸の発掘石垣(近年の調査成果)
最大の見どころは、琵琶湖の湖岸に姿を現した石垣の遺構です。黄色の立入禁止テープと「坂本城跡は文化財です/文化財には触らないでください 大津市文化財保護課」と記された看板で保護されています。
水位が下がった際に石垣の石が湖岸・湖中に並んでいる様子が確認でき、水の中から角張った巨大な石が列をなして姿を現しています。これらは坂本城の外郭(あるいは湖上施設)の遺構と考えられており、近年の調査で注目を集めています。
湖の水面に半分沈んだ状態で連続する石列は、まさに「琵琶湖に浮かぶ城」と称された坂本城の当時の姿を彷彿とさせ、訪問者に深い感動を与えます。
また、湖岸の土手沿いにも石が列をなして露出しており、石垣の一部が当時の位置を保ったまま残存していると見られます。オレンジ色のロープで区画が設けられ、保護が進められています。

見どころ⑤:琵琶湖の眺望
石垣見学の合間に広がる琵琶湖の景色は絶景です。冬の澄んだ空気の中、湖面には多数の水鳥(カモ類と思われる)が浮かび、対岸の山々が水鏡に映し出されています。光秀様はこの湖面を眺めながら、天下の行方を思案したことでしょう。近江富士(三上山)と思われる美しい山の姿も対岸に確認できます。

🏯 歴史解説:坂本城の誕生から落城まで
■ 時系列で見る坂本城の歴史
| 年号 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 永禄10年頃 | 1567年頃 | 明智光秀様、織田信長様に仕える |
| 元亀元年 | 1570年 | 姉川の戦い。光秀様は信長様配下として参戦 |
| 元亀2年 | 1571年 | 比叡山延暦寺焼き討ち。その後、光秀様が近江志賀郡代に任命される |
| 元亀2年9月 | 1571年 | 坂本城、築城開始。延暦寺焼き討ち後の地に建設 |
| 天正元年 | 1573年 | 足利義昭様、信長様に追放される。浅井・朝倉氏滅亡 |
| 天正4〜5年 | 1576〜77年 | 安土城築城。光秀様も丹波攻略を命じられる |
| 天正7〜9年 | 1579〜81年 | 丹波国平定。光秀様の勢力拡大 |
| 天正10年6月2日 | 1582年 | 本能寺の変。信長様、落命 |
| 天正10年6月13日 | 1582年 | 山崎の戦い。光秀様、羽柴秀吉様に敗北 |
| 天正10年6月15日頃 | 1582年 | 坂本城、落城・炎上。明智秀満様(光春様)が城に火を放つ |

■ 第一章:光秀様と信長様の出会い、そして台頭
永禄10年(1567年)頃、明智光秀様は織田信長様に仕えることになります。光秀様の出自については諸説ありますが、美濃国の土岐氏の一族であったとされ、若くして諸国を流浪した末に、越前の朝倉義景様のもとに身を寄せていたといわれています。そこへ足利義昭様が亡命してきたことが縁となり、光秀様は義昭様を信長様のもとへ案内する仲介役を担い、信長様の家臣となりました。
光秀様は当初から並外れた知性と行政手腕を発揮します。京都の幕府奉公衆や公家衆との折衝、外交文書の作成など、「武」だけではなく「文」の分野においても信長様に重用されていきました。また、茶の湯に造詣が深く、信長様主催の茶会においても重要な役割を担っていたとされています。
元亀元年(1570年)、光秀様は姉川の戦いに信長様の配下として参戦します。この戦いでは浅井長政様・朝倉義景様の連合軍と激戦を繰り広げ、織田・徳川連合軍が勝利を収めました。光秀様はこの戦いでも着実に武功を重ねていきます。
■ 第二章:比叡山延暦寺焼き討ちと坂本城の誕生
元亀2年(1571年)9月、歴史に残る大事件が起こります。織田信長様による比叡山延暦寺の焼き討ちです。
当時の延暦寺は、浅井・朝倉氏と手を結んでいました。天台宗の本山として政治的・軍事的にも大きな力を持っていた延暦寺を、信長様は徹底的に焼き払うことを決断します。この焼き討ちには光秀様も参加しており、僧侶や民衆をも含む多くの命が失われたとされています。
焼き討ちの後、信長様は光秀様に近江志賀郡の支配を命じます。この地は琵琶湖西岸の要衝であり、延暦寺の門前町として栄えた坂本の地でもありました。光秀様はここに本格的な城郭を築くことになります。それが坂本城です。
坂本城は、琵琶湖の湖岸に直接接する形で建設されました。「水城」あるいは「湖城」とも呼ばれ、当時の記録や宣教師の報告書には「安土城に次ぐ天下第二の名城」とも記されていたといいます。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、坂本城について「日本で最も堅固で美しい城の一つ」と記録に残しています。

■ 第三章:坂本城の構造と規模
坂本城は、琵琶湖に突き出すように立地しており、湖上からの眺めは壮観であったとされています。天守は五重以上あったとも伝わり、その壮大さは天下人・信長様の居城である安土城と比肩するほどであったといわれています。
城の構造については詳細な史料が少なく、現存する建物・遺構もありませんが、近年の発掘調査によってその姿が少しずつ明らかになってきています。
| 施設 | 内容・推定 |
|---|---|
| 天守 | 五重以上とも伝わる高層建築 |
| 石垣 | 琵琶湖岸に沿って大規模な石垣を構築 |
| 水門・湖上施設 | 琵琶湖に直接接する水上施設があったと推測 |
| 縄張り | 東西約350m、南北約250m程度とも推定(諸説あり) |
| 堀 | 琵琶湖自体が天然の外堀として機能 |
城の東側は琵琶湖に直接面し、湖そのものが天然の防御線となっていました。城の西側は比叡山の山麓にあたり、延暦寺との地理的な近接性もあり、宗教的・政治的な拠点としての機能も持ち合わせていたと考えられています。
また、坂本城の城下町も整備されており、延暦寺の門前町として発展してきた坂本の街と一体となった都市的な空間が形成されていたとされています。里坊群(延暦寺の僧侶たちの住居)が今も坂本の街に残っており、当時の城下の雰囲気を今に伝えています。
■ 第四章:光秀様の全盛期——丹波平定と天下への野望
坂本城を本拠地とした光秀様は、その後も着実に勢力を拡大していきます。天正4〜5年(1576〜77年)頃から、信長様より丹波国(現在の京都府北部・兵庫県東部)の平定を命じられ、長期にわたる丹波攻略を開始します。
丹波には波多野秀治様や荻野秋清様ら強力な土豪・国人衆が割拠しており、平定には数年を要しました。特に八上城(現在の兵庫県丹波篠山市)の波多野秀治様は頑強に抵抗し、光秀様は母親(あるいは叔母とも)を人質として差し出し和睦を試みたものの、結果的に波多野様は信長様により処刑されたという伝説も残っています。
天正7〜9年(1579〜81年)にかけて丹波国を平定した光秀様は、信長様から「惟任日向守」の称号と丹波国を与えられ、坂本城とともに亀山城(丹波)をも本拠地に加えることになります。この時期、光秀様の勢力は最大となり、京都・近江・丹波にまたがる広大な領地を支配していました。
■ 第五章:本能寺の変——歴史を変えた十三日間
天正10年(1582年)6月2日未明、光秀様は歴史上最も有名な謀反を決行します。本能寺の変です。
当時、信長様は中国地方の毛利氏攻略に向かっていた羽柴秀吉様(後の豊臣秀吉様)の援軍として、自ら出陣する準備をしていました。わずかな供回りで本能寺(京都市)に滞在していた信長様のもとへ、光秀様は約一万三千の大軍を率いて夜半に急進。「敵は本能寺にあり」の言葉とともに、本能寺を包囲・攻撃します。
信長様は「是非に及ばず」と語って奮戦しましたが、多勢に無勢。最期は本能寺において炎の中に消えたとされています。享年49歳(数え)でした。
光秀様が謀反に至った動機については、現在も歴史学界で多くの議論が続いています。信長様から度重なる叱責・冷遇を受けたことへの恨みとする「怨恨説」、足利幕府の再興を目指す義昭様との連携を想定した「将軍擁立説」、朝廷や公家衆からの働きかけがあったとする「朝廷黒幕説」、光秀様自身が天下取りを志したとする「野望説」など、諸説が入り乱れており、「本能寺の変の謎」は今なお日本史最大のミステリーとして人々を魅了し続けています。

■ 第六章:山崎の戦いと坂本城の落城
本能寺の変後、光秀様は即座に「天下人」として行動を開始します。摂津・丹後の諸将に書状を送り、協力を求めました。しかし期待した援軍はほとんど集まらず、細川藤孝様(幽斎様)・忠興様の細川家も光秀様への協力を拒否しました。
一方、中国地方で毛利軍と交戦中であった羽柴秀吉様は、本能寺の変の報を受けると驚異的なスピードで引き返してきます。「中国大返し」と称されるこの行軍は、わずか10日余りで約200㎞を踏破するというものでした。
天正10年(1582年)6月13日、光秀様の軍と秀吉様の軍は山崎(現在の京都府大山崎町)で激突します。山崎の戦いです。天王山をめぐる戦いは、わずか数時間で決着がつきました。光秀様の軍は総崩れとなり、光秀様自身も撤退の途上、伏見の小栗栖(おぐるす)において土民に討たれたとされています。享年55〜60歳頃と推定されています。天下を掌握してわずか13日間の出来事でした。
坂本城では、光秀様の重臣・明智秀満様(光春様とも)が城を守っていました。主君の敗死の報を受けた秀満様は、光秀様の妻子・家族を守りながら城に火を放ち、自ら城中で命を絶ったとされています。坂本城はこうして炎の中に消えました。天正10年(1582年)6月15日のことといわれています。
その後、坂本城跡は廃墟となり、城の石垣はその多くが近隣の寺社や民家の建設材料として持ち出されたとされています。湖の水位変動の中で一部は湖中に没し、現在に至るまで長い眠りについていました。
■ 第七章:近年の発掘調査——琵琶湖底に眠る石垣の発見
坂本城跡の正確な位置と規模については、長年にわたって不明な点が多く残っていました。しかし近年、大津市や関係機関による発掘調査が進むにつれて、重要な発見が相次いでいます。
特に注目されているのが、琵琶湖の湖岸・湖底において確認された石垣の遺構です。水位が下がる時期になると、湖岸の浅瀬に角張った大型の石が列をなして現れ、これが坂本城の石垣の一部ではないかと考えられています。
| 調査・発見内容 | 詳細 |
|---|---|
| 湖岸石垣 | 琵琶湖岸の浅瀬に大型の石が列をなして出現 |
| 石の特徴 | 大津市近辺で産出される花崗岩と思われる角石。城郭石垣に使われるような加工石 |
| 出土位置 | 坂本城跡の主郭部と推定される位置の東側(湖側) |
| 発見の経緯 | 琵琶湖の水位低下時に露出。地元住民や研究者が確認 |
| 保護措置 | 大津市文化財保護課が立入禁止テープ・看板を設置 |
| 調査状況 | 精密な位置測量・写真記録が進行中 |
平成27年(2015年)頃から、坂本城の位置に関する総合的な調査が進められており、磁気探査・地中レーダー探査なども活用されています。発掘調査では城郭に関連すると思われる遺物(瓦・陶磁器類)も出土しており、徐々に坂本城の全貌が明らかになりつつあります。
水中に沈んだ石垣の石列は、大津市文化財保護課によって文化財として保護されており、現在は触れることも持ち去ることも厳しく禁止されています。訪問者は必ずロープや立入禁止テープの外から観察するようにしてください。


■ 第八章:坂本城跡の現在——住宅街に眠る歴史
現在の坂本城跡は、大部分が住宅地となっており、往時の姿を偲ばせる構造物はほとんど残っていません。かつての天守や石垣の多くは失われ、城の面影は石碑・案内板と、点在する石垣見学ルートの標識のみが伝えています。
しかしながら、この地を歩けば至るところに坂本城の記憶が宿っています。街の古い民家の基礎に転用された石垣の石、寺院の石段として使われた古石、そして何より琵琶湖の湖岸に今もひっそりと姿を現す水中石垣——これらすべてが、440年余り前にこの地に栄えた光秀様の城の記憶を繋ぎとめているのです。
また、近くには光秀様にゆかりの深い日吉大社(ひよしたいしゃ)があります。光秀様は坂本城主として日吉大社を厚く崇敬したとされており、城跡と合わせて訪問することで、当時の光秀様の信仰や生活をより深く理解することができます。

🌸 観光で行く人へのポイント
■ 訪問前に準備しておくこと
坂本城跡は整備された公園型の観光地ではありません。住宅街に点在する史跡を自力で巡るスタイルとなります。以下を準備しておくと快適に回れます。
| 準備すること | 理由 |
|---|---|
| 地図アプリのDL・ルート確認 | 城跡が分散しており、道に迷いやすい |
| 歩きやすい靴 | 湖岸は砂利・泥道あり |
| 水分・軽食 | 周辺にコンビニはあるが少ない |
| カメラ・望遠レンズ | 石垣は立入禁止のため望遠撮影が有効 |
| 歴史の予習 | 光秀様・坂本城の基礎知識があると感動が増す |
■ おすすめの訪問ルート(所要約2時間)
比叡山坂本駅 → 坂本城址石碑・案内板(徒歩15分)
→ 光秀公銅像(徒歩5分)
→ 石垣見学ルート歩行(30〜40分)
→ 琵琶湖岸・水中石垣見学(15分)
→ 日吉大社参拝(30〜60分)
→ 坂本比叡山口駅
■ 近隣のあわせて訪れたいスポット
| スポット名 | 所在地 | 内容 |
|---|---|---|
| 日吉大社 | 大津市坂本5丁目 | 全国日吉・日枝・山王神社の総本社。光秀様も崇敬 |
| 延暦寺(比叡山) | 大津市坂本本町 | 天台宗総本山。焼き討ちの歴史も |
| 坂本の里坊群 | 大津市坂本周辺 | 延暦寺の僧侶の住居。白壁の美しい街並み |
| 西教寺 | 大津市坂本6丁目 | 光秀様一族の菩提寺。妻・熙子様の墓もあり |
| 穴太衆積みの石垣 | 坂本周辺 | 近江の石工集団「穴太衆」が積んだ野面積みの石垣 |
特に西教寺は、光秀様が檀家として深く関わり、坂本城主時代に整備した寺院です。光秀様のお墓・位牌も祀られており、坂本城跡とあわせて訪問必須のスポットです。

🍵 史跡訪問者『古天明平蜘蛛』による感想と歴史的考察
さて、ここからは古天明平蜘蛛がこの地を訪れての感想と考察を述べさせていただきます。
琵琶湖の水面を渡る冬の風は、冷たくも澄み渡り、心の奥深くまで沁み渡るようでした。
坂本城跡に足を踏み入れた瞬間、私の胸に去来したのは、「幻」という一言でございます——いや、失礼、「幻」という一言でした。
天下第二の名城と称されながら、今この地には天守の影も、石垣の面影もほとんど残されていない。
住宅街の只中に静かに立つ石碑と、色あせた木製の標識だけが、かつてここに栄華を誇った光秀様の居城があったことを、ひっそりと伝えているばかりです。
しかし——です。私がこの地を訪れて最も心を揺さぶられたのは、琵琶湖の湖岸に守られるように顔を出した、あの石垣の石たちでした。
黄色と黒の立入禁止テープが張られた先、水際に角ばった大きな石が列をなして並んでいました。「石垣は文化財です 触らないでください」と記された白い看板が、その石たちを守っています。
私はその看板の前に立ち、しばらく動けませんでした。
あの石は、光秀様の手によって積まれた城の一部だったかもしれない。本能寺の変の前日も、山崎の戦いで光秀様が敗れた後も、明智秀満様が城に火を放ったあの日も、そしてこの440年余りの長い歳月も——あの石たちはずっと、この琵琶湖の波に洗われながら沈黙を守り続けてきたのです。
光秀様という武将は、誠に不思議な人物でした。文武両道に優れ、茶の湯を嗜み、連歌を愛し、治政に心を砕く——その姿は、武力だけで成り上がった武将とは一線を画するものでした。
坂本城の城下に暮らす民人への配慮、延暦寺の焼き討ちへの関与という歴史的な汚点を持ちながらも、丹波平定においては善政を敷いたとも伝わります。
「われならではたれかは結ぶ 一松心 通ひ来て 忘心の清風」
銅像の傍らに刻まれた和歌の一節を、私は何度も心の中で繰り返しました。「一本の松のように、純粋な心で清風に通い続けよう」——そのような意味でしょうか。
この歌が本当に光秀様の詠んだものかどうかは、私には確認のしようもありません。
しかし、この地を訪れてこの歌に触れると、光秀様が単なる謀叛人ではなく、一つの時代の悲劇を体現した、複雑な人間であったことが胸に迫ってきます。
坂本城が「安土城に次ぐ天下第二の名城」と称されたことは、歴史の皮肉でもあります。
信長様の安土城の次に美しいと称えられた城を、まさに光秀様が信長様を討って建てた——という事実の重みを、この地に立って初めて実感します。
湖面に浮かぶ水鳥の群れを眺めながら、私はこう思いました。
光秀様は本当に、この琵琶湖の水面を毎日眺めながら、何を考えていたのでしょうか。
比叡山を焼いた後悔だったのか、信長様への忠義と恐怖の狭間で揺れ動く心だったのか、それとも「天下を変えなければならない」という確固たる信念だったのか——今となっては誰にもわかりません。
ただ一つ確かなことがあります。
この地の石垣は、長い時間の中で湖の底に沈みながらも、消えてはいなかったということです。
440年の沈黙を経て、今また水面に姿を現したあの石たちは、歴史の記憶とはいかに強靭なものであるかを、静かに、しかし雄弁に物語っています。
近年の発掘調査によって、坂本城の姿は少しずつ明らかになってきています。これからも調査が進み、「幻の名城」と呼ばれた坂本城の真実の姿が、さらに多く明らかになることを、私は心から期待しています。
坂本の地を後にする際、私は湖面の水鳥たちにひっそりと別れを告げました。
この鳥たちもまた、光秀様が見たのと変わらぬ琵琶湖の景色の中を、悠然と泳ぎ続けています。
歴史は消えない。石垣は語る。
——坂本城跡は、そのことを改めて教えてくれる場所でした。

📖 参考資料
| 資料名 | 内容 |
|---|---|
| 大津市文化財保護課 現地説明板 | 坂本城跡の概要説明(現地設置) |
| 大津市設置石碑(坂本城) | 大津市による史跡案内(現地設置) |
| ルイス・フロイス著『日本史』 | 宣教師による坂本城の記録 |
| 『信長公記』 | 太田牛一著。坂本城築城関連記事 |
| 大津市埋蔵文化財調査報告書 | 坂本城跡発掘調査の成果 |
| 『明智光秀』(各種歴史書) | 光秀様の生涯・坂本城に関する研究 |
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本記事は史跡訪問キャラクター「古天明平蜘蛛」による現地訪問と歴史資料をもとに作成しました。 坂本城跡の文化財保護のため、湖岸の石垣への接触・立入禁止区域への侵入は絶対におやめください。
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