🗾*史跡訪問記録*
犬山城(いぬやまじょう)
愛知県犬山市|現存12天守で最古の様式を伝える国宝の城
別名・白帝城——木曽川を望む丘に、織田・豊臣・徳川の時代が積み重なる


日本各地の史跡を訪ね歩く語り部、戦国の茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょう ひらぐも)」と申します。かつて名将・松永久秀様に愛され、乱世をくぐり抜けてきた一個の釜です。
今回ご案内するのは、愛知県犬山市の犬山城。木曽川のほとりの小高い丘に立つ、国宝・現存天守です。全国に江戸時代から残る天守はわずか12基。そのなかでも犬山城の天守はもっとも古い様式を伝えるとされ、天守が国宝に指定された5城のひとつに数えられます。
築いたのは、織田信長様の叔父・織田信康様。以後この城は、信長様の尾張統一、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いと、天下の分かれ目のたびに主を変えました。そして江戸時代には尾張徳川家の付家老・成瀬家が12代にわたり城主を務め、明治以降も長く成瀬家の所有だった「日本唯一の個人所有の城」として知られました。木の匂いと急な階段、廻縁から望む木曽川——現存天守でしか味わえない時間を、たっぷりとご紹介します。それでは、ともに歩いてまいりましょう。
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⚠️ はじめにお断り(訪問時期について)
この記事の写真・情報は冬から早春の訪問時のものです。開城時間・料金・展示内容などは変わる場合があります。お出かけの際は、必ず国宝犬山城の公式情報で最新情報をご確認ください。

📑 目次
📜 この記事でわかること
- 犬山城の場所・アクセス・駐車場・開城時間・入場料
- 日本100名城スタンプ(No.43)の設置場所
- 現存12天守・国宝5城とは何か、犬山城が「最古」と言われる理由
- 天文6年(1537年)織田信康様の築城から、信長様の尾張統一まで
- 小牧・長久手の戦いで池田恒興様が奇襲奪取した経緯
- 豊臣期の城主交代と、関ヶ原の戦いにおける犬山城
- 尾張徳川家付家老・成瀬家12代の統治と天守の増築
- 明治の廃城から「個人所有の城」を経て国宝・財団管理へ至る流れ
- 歴代城主の一覧表と、廻縁・武者走り・石落としなど天守の見どころ
- 史跡訪問者「古天明平蜘蛛」による歴史解説と感想
✅ 訪問インフォメーション
| 📅 訪問日 | 冬〜早春(晴天の日中) |
|---|---|
| ⏱ 滞在時間 | 城のみ約60〜90分/城下町散策を含めると半日 |
| 🚃 アクセス | 名鉄「犬山遊園駅」から徒歩約15分、「犬山駅」から徒歩約20分(城下町を歩けます)。車は中央道「小牧東IC」から約10分、名神「小牧IC」から約30分 |
| 🅿️ 駐車場 | 犬山城第1・第2駐車場(1時間300円・1日最大1800円ほど)、第3駐車場(1時間200円ほど)※要最新確認 |
| 🚻 トイレ | 登城口付近・駐車場にあり。天守内にはありませんので先に済ませておきましょう |
| 👥 混雑 | 桜の季節・連休は天守内が大変混雑し、入場制限がかかることも。平日午前が狙い目 |
| 📷 撮影可否 | 屋外・天守内とも撮影可(三脚や長時間の占有は控える) |
| 🧭 迷いやすい点 | 城へは針綱神社の脇の坂道を登ります。神社の参道と登城路が一体なので、鳥居をくぐって奥へ。天守内は階段が急で狭く、上りと下りが同じ経路になる箇所があります |
| 💴 入場料 | 大人550円・小中学生110円程度(城下町周遊券などのセット券もあり)※要最新確認 |
| 🕐 開城時間 | 9:00〜17:00(最終入場16:30)/休城日 12月29日〜31日 |
📋 基本情報
| 城名 | 国宝 犬山城(いぬやまじょう)/通称・白帝城(はくていじょう) |
|---|---|
| 所在地 | 〒484-0082 愛知県犬山市犬山北古券65-2 |
| 立地・城のかたち | 木曽川南岸の丘陵上に築かれた平山城。断崖と川を背にした後堅固の城 |
| 天守構造 | 望楼型・三層四階地下二階・複合式天守/高さ約19m |
| 築城年・築城者 | 天文6年(1537年)/織田信康様(織田信長様の叔父) |
| 主な城主 | 織田氏・池田氏・石川氏・成瀬氏 |
| 廃城年 | 明治4年(1871年)※天守は現存 |
| 指定文化財 | 国宝(天守)/城跡は愛知県指定史跡 |
| 選定 | 日本100名城 No.43/現存12天守・国宝5城のひとつ |
🗺️ 地図(Googleマップ)
国宝犬山城の位置です。木曽川に面した丘の上、城下町の北端にあります。
※表示されない場合は「Googleマップで犬山城を開く」から。
🔖 日本100名城スタンプ
犬山城は日本100名城(No.43)に選ばれています。
| 設置場所 | 犬山城郭内・門2階の管理事務所(入場後) |
|---|---|
| 注意 | 入場料が必要です。閉城後は押せないため、時間に余裕をもって |
| 御城印 | 犬山城前観光案内所で販売。季節限定デザインが登場することもあります ※要最新確認 |
⚠️ 訪問の注意点
| No. | 注意事項 |
|---|---|
| 1 | 天守内は土足禁止です。靴を脱いで袋に入れて持ち歩きます。脱ぎ履きしやすい靴がおすすめ。 |
| 2 | 階段が非常に急です。手すりをしっかり持って昇降を。スカートやヒールは避けたほうが安心です。 |
| 3 | 最上階の廻縁(まわりえん)は手すりが低く、床も傾いて見えるほどの高所です。小さなお子さま連れは特にご注意を。 |
| 4 | 国宝の木造建築です。柱や壁を傷つけない、飲食をしない、混雑時は譲り合うなど、マナーを守って見学しましょう。 |
| 5 | 登城路は針綱神社の境内を通ります。参拝者の妨げにならないよう静かに通行を。 |
📸 現地写真と見どころ
城下町から天守、そして廻縁の眺めまで——登城の順路にそってご紹介します。
① 遠景 ―― 丘の上に浮かぶ白帝城
犬山の街を歩いていると、木立の向こうにふいに天守が顔を出します。木曽川南岸の丘の上、断崖を背にして立つその姿は、まさに「白帝城」の名にふさわしい佇まいです。この別名は、江戸時代の儒学者・荻生徂徠様が、中国・長江のほとりの白帝城になぞらえて名づけたと伝わります。城下からの遠景は、犬山観光のハイライトのひとつです。



② 登城口と針綱神社 ―― 神域を抜けて城へ
登城路は、城山の南麓に鎮座する針綱神社の参道と一体になっています。朱塗りの社殿と巨石を横目に石段を登っていくと、白壁の塀と石垣が見えてきます。神社と城が地続きになっているのは、この山がもともと信仰の場でもあったことの名残です。城下町の落ち着いた町並みから、静かに空気が変わっていくのを感じられます。




③ 石垣と門 ―― 自然石を積んだ野面積み
天守の下部を支えるのは、加工をあまり施さない自然石を積み上げた野面積み(のづらづみ)の石垣です。丸みを帯びた木曽川の石が多く用いられ、隙間の多い荒々しい表情をしています。整然と加工された江戸期の石垣とは対照的で、戦国の匂いが濃く残る一角です。門をくぐると、いよいよ天守が目の前に迫ります。




④ 天守外観 ―― 現存最古の様式を見上げる
石段を上がりきると、国宝の天守が姿を現します。三層四階地下二階、高さ約19m。下層に大きな入母屋屋根を置き、その上に望楼(物見の櫓)を載せた望楼型という古い形式で、現存12天守のなかでも最古の様式を伝えるとされています。白漆喰の壁と黒い下見板のコントラスト、最上階を巡る朱色の高欄(手すり)。装飾は華美でないのに、どっしりと美しい。何枚でも撮りたくなる姿です。





⑤ 天守内部 ―― 木と時間の匂い
靴を脱いで天守に入ると、まず床のひんやりとした感触と、木の匂いに包まれます。太い梁と柱、黒光りする板の間。復元天守では決して味わえない、本物の時間がここにあります。
地下から一階へ上がると、天守を支える石垣がそのまま室内に露出している「穴蔵」の構造が見られます。上階へ向かう階段は非常に急で、まるで梯子のよう。手すりを握りしめて登ると、当時の武士たちも同じように昇り降りしたのだと実感します。






⑥ 上段の間・武者走り ―― 城主の座と防御の工夫
天守の内部には、城主が座したと伝わる上段の間や、藩主の座敷である唐破風の間が設けられています。畳敷きの空間が天守内にあるのは珍しく、犬山城が単なる軍事施設ではなく、格式を示す場でもあったことが分かります。
一方で、防御の工夫も随所に。壁沿いを巡る武者走り、床に開けられた石落とし、そして東南隅に張り出した付櫓(つけやぐら)。攻めと守り、格式と実戦——それらが同居しているのが、この天守の面白さです。






⑦ 展示 ―― 甲冑と歴代城主の記録
天守内には、成瀬家に伝わる甲冑や城の模型、そして歴代城主の一覧表が展示されています。歴代城主表を眺めると、この城がいかに激しく主を変えたかが一目で分かります。壁に掲げられた国宝指定書や、成瀬家が城主であったことを示す資料も見どころです。






「歴代城主」の掲示
⑧ 廻縁からの絶景 ―― 木曽川と濃尾平野
そして最上階。廻縁(まわりえん)に出て、外周をぐるりと歩けるのは、現存12天守のなかでも犬山城と高知城だけです。手すりは低く、床はわずかに外へ傾いて感じられ、正直なところ足がすくみます。しかしその眺めは格別です。
眼下には木曽川が悠々と流れ、対岸には岐阜の山並み。北を望めば伊木山、遠くには御嶽山や岐阜城のある金華山も見えるといいます。かつて城主たちは、この位置から川を渡る舟と街道を監視していました。犬山城が美濃と尾張の境目を押さえる戦略の要であったことが、この一望で腑に落ちます。






⑨ 城内の史跡 ―― 御神木と城下町へ
天守を下りたら、周囲もぜひ歩いてみてください。しめ縄を巻かれた御神木、丘の中腹から見上げる天守、そして城下へ続く道。犬山は城下町の町並みもよく残っていて、古い商家を活かした店が並びます。城と町をセットで歩けるのが、犬山観光の醍醐味です。




👣 観光で行く人へのポイント
🚶 まわり方
犬山駅または犬山遊園駅 → 城下町(本町通り)を散策 → 針綱神社 → 犬山城天守 → 廻縁で絶景 → 城下町でグルメ、が王道です。城のみなら60〜90分、城下町も含めるなら半日をみておきましょう。
🌸 季節のたのしみ
春は木曽川沿いの桜と天守の競演が見事。4月には国の重要無形民俗文化財「犬山祭」が行われ、13輌の車山(やま)が城下を巡ります。夏には木曽川の鵜飼、秋は紅葉と、季節ごとに表情が変わります。
📷 撮影のおすすめ
定番は木曽川の対岸(ライン大橋方面)からの遠景。川面と天守を一緒に収められます。城下町の路地から見上げる構図も味があります。
📖 予習のすすめ
「なぜこの城は何度も主が変わったのか」を知ってから登ると、廻縁からの眺めの意味が変わります。次の歴史解説をぜひ先にどうぞ。
📖 歴史解説 ―― 古天明平蜘蛛が語る「犬山城 五百年の物語」

語り手:史跡訪問者「古天明平蜘蛛」
ここからは、私・古天明平蜘蛛が、犬山城の歩みを時の流れにそってお話しします。戦国の尾張に生まれ、織田・豊臣・徳川と主を変え、明治の廃城令をくぐり抜けて国宝となった城。日本の近世史がまるごと詰まった、稀有な物語です。
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【一】木曽川の要害 ―― なぜこの地に城が要ったのか
犬山の地は、尾張と美濃の国境にあたります。北を流れる木曽川は天然の巨大な堀であり、同時に舟運の大動脈でもありました。川を渡る渡し場と、中山道・木曽街道へつながる陸路。この二つを押さえられる丘こそが、犬山城の立つ場所です。
断崖を背にして川に臨むこの立地は、背後からの攻撃を受けにくい「後堅固(うしろけんご)」の城の典型です。戦国の尾張・美濃の争いにおいて、犬山城は常に両国の喉元を押さえる位置にありました。だからこそ、この城は時代の節目ごとに争奪の的となったのです。
【二】天文6年(1537年)、織田信康様の築城
現在の犬山城の礎を築いたのは、織田信康様。織田信秀様の弟であり、織田信長様の叔父にあたる人物です。天文6年(1537年)、信康様は木ノ下城からこの地へ城を移し、犬山城を築いたと伝わります。
しかし信康様は天文16年(1547年)、美濃の斎藤道三様との戦い(加納口の戦い)で討死してしまいます。城は子の織田信清様が継ぎました。信清様は信長様の従兄弟にあたり、当初は信長様に協力していました。
【三】犬山城の戦い ―― 信長様の尾張統一、最後の関門
やがて信清様は、恩賞への不満などから信長様と対立し、美濃の斎藤氏と結んで反旗を翻します。永禄年間、信長様は犬山城を攻撃。城は堅固でしたが、信長様は周辺の支城を落として孤立させ、ついにこれを攻略しました。
敗れた信清様は甲斐へ逃れ、武田信玄様を頼ったため「犬山鉄斎」と号したと伝わります。この犬山城の攻略により、信長様の尾張統一は完成しました。桶狭間の勝利の後、信長様が美濃攻めへ本格的に乗り出す直前の出来事です。天下布武への道は、この城を得たところから本格的に始まったとも言えます。
📘 豆知識:小牧山城との関係
信長様は永禄6年(1563年)に清洲から小牧山へ居城を移していますが、犬山はその小牧山からわずか北へ約8km。犬山城の攻略と小牧山への移転は、いずれも美濃攻めという同じ戦略の中にありました。木曽川を渡れば、そこはもう斎藤氏の美濃です。
【四】織豊時代① ―― 小牧・長久手の戦いと池田恒興様の奇襲
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長様が斃れると、犬山城もまた時代の渦に巻き込まれます。天正12年(1584年)、羽柴秀吉様と、織田信雄様・徳川家康様が争った小牧・長久手の戦い。その緒戦の舞台こそ、この犬山城でした。
当時、犬山城は信雄様の勢力下にありました。ところが3月13日、秀吉方についた池田恒興様が突如奇襲をかけ、城を電撃的に奪取します。これにより犬山城は、尾張における秀吉方の最前線拠点となりました。この報を受けた家康様が急ぎ小牧山へ入って本陣を構えたことで、両軍は木曽川を挟んで対峙することになります。
長久手の激戦で池田恒興様は討死しますが、戦い全体は秀吉様の政治的勝利に終わりました。犬山城は、天下の帰趨を左右した攻防の起点となったのです。
【五】織豊時代② ―― めまぐるしい城主の交代
戦後、犬山城は天正15年(1587年)に織田信雄様へ返還されます。しかし天正18年(1590年)、信雄様が秀吉様によって改易されると、城は豊臣秀次様の領地となり、その実父・三好吉房様が城代を務めました。さらに文禄4年(1595年)に秀次様が切腹すると、秀吉様の家臣・石川貞清(光吉)様が城主となります。
そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い。石川貞清様は西軍に属して犬山城に籠もりましたが、東軍の圧力の前に開城しました。貞清様はその後、商人として身を立てたと伝わります。戦後、城は東軍の小笠原吉次様、次いで平岩親吉様(家康様の重臣)へと引き継がれました。わずか十数年のうちに、城主が目まぐるしく入れ替わったのです。

【六】江戸時代 ―― 成瀬家12代の統治
犬山城が安定を得たのは、元和3年(1617年)のことです。尾張徳川家の付家老(つけがろう)であった成瀬正成様が、二代将軍・徳川秀忠様から犬山城を拝領し、初代城主となりました。以後、明治維新まで成瀬家12代がこの城を守り続けます。
付家老とは、将軍家が御三家を補佐させるために付けた重臣のこと。成瀬家は尾張藩の家老でありながら、幕府から直接城を与えられるという特別な立場にありました。この微妙な位置づけが、犬山城が「城持ちの家老」の城として存続できた理由でもあります。
現在の天守の姿が整ったのも成瀬家の時代です。三階・四階部分は正成様の時代に増築されたと考えられており、下部の戦国的な古い構造と、上部の江戸的な望楼が一体となった、独特の姿が生まれました。天守を見上げると、二つの時代が重なって立っているのです。
【七】明治維新 ―― 廃城、そして「個人所有の城」へ
明治4年(1871年)の廃藩置県により、犬山城は廃城となりました。多くの城が取り壊されるなか、天守は解体を免れます。しかし明治24年(1891年)の濃尾地震で天守は半壊という大きな被害を受けました。
このとき愛知県は、修復を条件に旧城主・成瀬家へ天守を無償譲与します。成瀬家は私財を投じて修復にあたり、天守は救われました。以後、犬山城は日本で唯一の「個人所有の城」として知られることになります。城を守るということが、どれほどの負担と覚悟を伴うものだったか——この一事だけでも胸を打たれます。
【八】国宝へ、そして現在
昭和10年(1935年)、天守は当時の国宝(旧国宝)に指定され、戦後の昭和27年(1952年)には新制度のもとであらためて国宝に指定されました。国宝に指定された天守は、姫路城・松本城・彦根城・松江城、そしてこの犬山城の5城のみです。
平成16年(2004年)、成瀬家個人による所有から、公益財団法人 犬山城白帝文庫による管理へと移行しました。これにより「個人所有の城」の時代は終わりましたが、城は今も大切に守られ、多くの人を迎えています。天文6年の築城から数えて、実に約490年。木曽川のほとりで、この天守は日本の歴史をずっと見つめ続けてきたのです。
📘 豆知識:現存12天守と国宝5城
江戸時代以前に建てられ、現代まで残る天守は全国に12基だけです(弘前・松本・丸岡・犬山・彦根・姫路・松江・備中松山・丸亀・松山・宇和島・高知)。そのうち国宝は5城(姫路・松本・犬山・彦根・松江)。さらに最上階の廻縁を歩けるのは犬山城と高知城のみです。犬山城は「最古の様式」「国宝」「廻縁を歩ける」という三つの魅力を兼ね備えた、貴重な存在です。
◆ 人物コラム:織田信康様とは
織田信秀様の弟で、信長様の叔父にあたります。天文6年(1537年)に犬山城を築き、木曽川を押さえる要衝の主となりました。武勇の人として知られ、天文16年(1547年)、美濃の斎藤道三様と戦った加納口の戦いで討死しています。信長様が家督を継ぐ以前の織田家を支えた一人であり、その築いた城が、のちに甥の天下取りの足がかりとなり、さらに五百年近く残ることになったのは、歴史の妙という他ありません。
◆ 人物コラム:成瀬正成様とは
徳川家康様に幼少から仕えた譜代の臣で、数々の合戦で武功を挙げました。慶長12年(1607年)に尾張藩主・徳川義直様の付家老に任じられ、元和3年(1617年)、二代将軍・秀忠様から犬山城を拝領します。犬山城の天守に三階・四階を増築し、現在の姿を整えたのは正成様の時代とされます。以後12代にわたって成瀬家が城を守り、明治の危機に際しても私財を投じて天守を修復しました。この城が今日あるのは、成瀬家の存在によるところが大きいと言えるでしょう。
◆ 犬山城 ―― 歴代の主な城主
| 時期 | 城主 | できごと |
|---|---|---|
| 1537年〜 | 織田信康様 | 築城。信長様の叔父。加納口の戦いで討死 |
| 1547年〜 | 織田信清様 | 信長様と対立し敗北。甲斐へ逃れる |
| 織田政権期 | 織田信長様の支配下 | 尾張統一が完成。以後は一族・家臣が管理 |
| 1584年 | 池田恒興様 | 小牧・長久手の戦いで奇襲奪取。のち長久手で討死 |
| 1587年〜 | 織田信雄様 | 返還されるが、1590年に改易 |
| 1590年〜 | 三好吉房様(城代) | 豊臣秀次様の領地となる |
| 1595年〜 | 石川貞清(光吉)様 | 関ヶ原で西軍につき開城 |
| 1600年〜 | 小笠原吉次様 | 関ヶ原後、東軍方が入城 |
| 1607年〜 | 平岩親吉様 | 家康様の重臣。尾張藩の付家老 |
| 1617年〜1871年 | 成瀬家12代 (初代・正成様〜) |
尾張徳川家付家老として明治まで城主を務める。天守の三・四階を増築 |
◆ 犬山城 ―― おおまかな時系列
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1537年(天文6) | 織田信康様が犬山城を築城 |
| 1547年 | 信康様が加納口の戦いで討死。信清様が城主に |
| 永禄年間 | 信長様が犬山城を攻略。尾張統一が完成 |
| 1584年(天正12) | 池田恒興様が奇襲で奪取。小牧・長久手の戦いへ |
| 1590〜95年 | 豊臣秀次様の領地を経て、石川貞清様が城主に |
| 1600年(慶長5) | 関ヶ原の戦い。西軍方の犬山城は開城 |
| 1617年(元和3) | 成瀬正成様が拝領。以後12代が城主を務める |
| 1871年(明治4) | 廃城。天守は解体を免れる |
| 1891年(明治24) | 濃尾地震で天守が半壊。修復を条件に成瀬家へ譲与 |
| 1935年/1952年 | 旧国宝に指定/新制度で国宝に指定 |
| 2004年(平成16) | 財団法人へ移管。「個人所有の城」の時代が終わる |
◆ 現存12天守と国宝5城
| 区分 | 城名 |
|---|---|
| 国宝5城 | 姫路城・松本城・犬山城・彦根城・松江城 |
| 重要文化財の現存天守 | 弘前城・丸岡城・備中松山城・丸亀城・松山城・宇和島城・高知城 |
| 廻縁を歩ける天守 | 犬山城・高知城(この2城のみ) |
🍵 古天明平蜘蛛による歴史感想記
語り手:史跡訪問者「古天明平蜘蛛」
── 古天明平蜘蛛の記 ──
私は古天明平蜘蛛。釜師の手によって生まれ、幾多の武将の茶席を彩ってきた茶釜です。犬山城の天守に足を踏み入れた瞬間、私はしばらく動けませんでした。床の冷たさ、木の香り、そして四百年以上の人の手で磨かれた柱の艶。ここには「本物の時間」が積もっている——器の身にも、それがはっきりと分かりました。
古びることの美しさ
復元された天守も立派です。しかし現存天守にあるのは、新しさではなく擦り減った美しさです。何万人もの足が踏んだ階段はわずかに窪み、手すりは黒く光っている。茶の湯の世界では、使い込まれた道具の景色を尊びます。数百年の使用の跡を「疵(きず)」ではなく「景色」と見る目で天守を眺めると、この城の値打ちが違って見えてきます。私自身も何度も湯を沸かし、煤を纏った身。だからこそ、この建物の風合いには深く共感を覚えました。
主を変え続けた城
そして思うのは、この城の生き方です。織田、池田、豊臣方、そして徳川。犬山城は時代の節目ごとに主を変えました。裏切られ、奪われ、返され、また与えられる。人であればさぞ辛かったでしょう。けれど城は文句ひとつ言わず、そのたび新しい主を迎え入れ、結果としてすべての時代を生き延びたのです。滅びの美学を語る城も多いなか、犬山城は「生き残ることの尊さ」を教えてくれます。明治の地震で半壊してなお、旧主の家が私財を投じて建て直したというのも、この城が愛された証でしょう。
廻縁に出て、木曽川を見下ろしました。風が思いのほか強く、手すりの低さに足がすくみます。しかしこの高さから川と街道を睨んだ城主たちの気持ちは、少しだけ分かった気がしました。国境の城とは、常に外を見ている城なのです。四百九十年、この天守は同じ景色を見続けてきました。名残惜しくはありますが、私はまた次の史跡へと歩いてまいります。
── 古天明平蜘蛛
🏛️ あわせて巡りたい ―― 周辺とモデルコース
| スポット | みどころ |
|---|---|
| 犬山城下町(本町通り) | 古い町家が並ぶ食べ歩きの町。串グルメや甘味が充実(徒歩すぐ) |
| 針綱神社・三光稲荷神社 | 城山の麓に鎮座。ハート絵馬やピンクの鳥居で人気(登城路沿い) |
| どんでん館・からくり展示館 | 犬山祭の車山(やま)とからくり人形を展示(城下町内) |
| 有楽苑・国宝茶室「如庵」 | 織田有楽斎様ゆかりの国宝茶室。茶の湯好きは必見(車で数分) |
| 小牧山城 | 信長様が築いた城、家康様の本陣。小牧・長久手の戦いとセットで(車で約25分) |
── おすすめモデルコース(1日)──
🚉 名鉄「犬山駅」
↓ 徒歩・城下町を散策(食べ歩き)
⛩ 三光稲荷神社・針綱神社
↓ 徒歩5分
🏯 国宝犬山城(天守・廻縁/約60〜90分)
↓ 徒歩・車
🍵 有楽苑(国宝茶室 如庵)で一服
↓ 車で約25分
⛰ 小牧山城まで足を延ばして「信長・家康の城めぐり」
❓ よくある質問(FAQ)
Q. 犬山城の天守はなぜ「最古」と言われるのですか?
A. 天文6年(1537年)の築城とされ、下層部分に古い時代の構造を残していることから、現存12天守のなかでもっとも古い様式を伝えるとされています。ただし現在の天守がどこまで築城当初のものかについては、慶長期の改修とする説など研究上の議論があります。
Q. 「日本で唯一の個人所有の城」というのは本当ですか?
A. 平成16年(2004年)までは事実でした。明治の濃尾地震で半壊した天守を、修復を条件に旧城主・成瀬家が譲り受けたためです。現在は公益財団法人 犬山城白帝文庫が所有・管理しています。
Q. 天守の中はどのくらい大変ですか?
A. 階段は非常に急で、ほぼ梯子のような箇所もあります。手すりを使えば登れますが、足腰に不安のある方や小さなお子さまは慎重に。エレベーターはありません。
Q. 100名城スタンプはどこですか?
A. 城郭内の門2階にある管理事務所です。入場料が必要で、閉城後は押せませんのでご注意ください。
Q. どのくらい時間をみておけばよいですか?
A. 城だけなら60〜90分。城下町の散策や有楽苑まで含めるなら、半日から1日を予定すると余裕があります。
📚 参考資料
| 資料名 | 備考 |
|---|---|
| 国宝犬山城 公式サイト | 城の概要・開城時間・城主の変遷 |
| 同上「織田信長の尾張統一最終章 犬山城の戦いと織田信清」 | 尾張統一と犬山城 |
| 愛知県「あいち歴史観光|犬山城」 | 国宝・史跡情報 |
| Wikipedia「犬山城」 | 城主の変遷・建築年代の諸説 |
| 現地説明板・天守内展示(歴代城主表ほか) | 犬山市・現地 |
🔗 関連記事リンク
小牧・長久手の戦いつながり、信長様つながりでこちらもどうぞ。
✏️ まとめ
犬山城は、天文6年(1537年)に織田信長様の叔父・信康様が築き、現存12天守のなかで最古の様式を伝える国宝の城です。信長様の尾張統一の総仕上げとなり、小牧・長久手の戦いでは池田恒興様の奇襲奪取から合戦の火蓋が切られ、関ヶ原では西軍の城として開城しました。そして江戸時代には尾張徳川家付家老・成瀬家12代が守り、明治の地震で半壊した天守を私財で建て直したことで、「日本唯一の個人所有の城」として知られました。
織田・豊臣・徳川——三つの時代を渡り歩き、そのすべてを生き延びた木造の天守。急な階段を登り、廻縁から木曽川を見下ろせば、この城が国境の要衝として果たしてきた役割が体で分かります。城下町の散策とあわせて、ぜひ丸一日かけて味わってみてください。お出かけの際は最新情報をご確認のうえ、国宝建築を大切に見学しましょう。
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※本記事は史跡訪問記録として作成しました。写真は訪問時のものです。開城時間・料金・展示内容は変わる場合があります。最新情報は国宝犬山城の公式情報でご確認ください。
※天守の建築年代(現存部分がいつのものか)には研究上の諸説があります。城主の変遷についても史料により異同があります。
※語り手「古天明平蜘蛛」は戦国茶器をモチーフにした架空のキャラクターです。
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