古天明平蜘蛛の史跡訪問記録

日本各地の史跡・城跡を実際に訪問した記録と歴史解説。

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🗾*史跡訪問記録*【群馬県沼田市】沼田城|幻の五層天守と御殿桜——真田の意地が刻まれた天空の要衝

🏯 史跡訪問記録 🏯

沼田城(ぬまたじょう)

群馬県沼田市|真田三代が守り抜いた、天空の要衝

【沼田城址(群馬県沼田市・沼田公園)】


日本各地の史跡を訪ね歩く語り部、戦国の茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょう ひらぐも)」と申します。

本日ご案内するのは、上野国(こうずけのくに)利根の地に築かれた沼田城。利根川が刻んだ河岸段丘の上にそびえ、越後・甲斐・相模の三大勢力が奪い合った戦国の要衝であり、真田一族が家の命運を賭けて守り抜いた城です。

今は天守を失い、静かな公園となっていますが、土塁や堀、樹齢四百年の御殿桜、そして真田の城鐘が、往時の記憶を今に伝えています。それでは、ともに歩いてまいりましょう。


📜 この記事でわかること

  • 沼田城(沼田公園)の場所・アクセス・駐車場・営業時間など、訪問前に知っておきたい実用情報
  • 続日本100名城スタンプ(No.116)と御城印の入手場所
  • 現地で見ておきたい見どころ(御殿桜・鐘楼・西櫓台の石垣・平八石・大天狗面 ほか)
  • 沼田顕泰様の築城から真田氏の五層天守、破却、そして公園化までの歴史を時系列で
  • 実際に訪問した感想・注意点・周辺の迷いやすいポイント
  • 史跡訪問者「古天明平蜘蛛」による戦国の歴史解説

🔰 はじめに ―― 沼田城を3行で
・真田信之様が五層天守を築いた、上野国の戦国の要衝。
・天守は破却され、今は土塁・堀・御殿桜・鐘楼が残る城跡公園。
・続日本100名城(No.116)。スタンプ・御城印は観光案内所で。

✅ 訪問インフォメーション

【沼田公園駐車場わきの観光案内所(スタンプ・御城印の窓口)】

📅 訪問日 2026年(令和8年)2月/冬枯れの快晴
⏱ 滞在時間目安 約60〜90分(園内を一周)
🚃 アクセス JR上越線「沼田駅」から徒歩約15〜20分/関越道「沼田IC」から車で約10分
🅿️ 駐車場 沼田公園 無料駐車場あり(台数に限りあり)
🚻 トイレ 公園内・観光案内所付近にあり
👥 混雑 平日・冬は静か/桜の季節は花見客で大混雑
📷 撮影可否 ✔ 屋外は自由(三脚・ドローンは原則不可。館内展示は一声を)
⚠️ 迷いやすい点 天守は現存せず公園化(模型は館内)。駅は崖下・城は崖上で高低差が大きい
💴 入場料 無料
🕐 営業時間 公園は終日自由/観光案内所は後述

⚠️ 高低差にご注意
沼田の街は河岸段丘の上に開けています。沼田駅(崖下)から城(崖上)までは標高差があり、徒歩は後半が登り坂です。歩きやすい靴でお出かけください。

📋 基本情報

正式名称 沼田城(ぬまたじょう)
別名 蔵内城(くらうちじょう)・倉内城
住所 〒378-0042 群馬県沼田市西倉内町594(沼田公園)
築城年 天文元年(1532年)
築城主 沼田顕泰(ぬまた あきやす/万鬼斎)
主な城主 沼田氏 → 真田氏(信之ほか五代)→ 本多氏・黒田氏・土岐氏
遺構 土塁・堀・石垣(西櫓台)・城門(移築現存)
種別 続日本100名城 No.116(2017年選定)
問い合わせ 0278-23-2111(沼田市 教育部 文化財保護課)

🗺️ Googleマップ

沼田公園(沼田城址)の位置です。河岸段丘の上、市街地を見下ろす高台にあります。

※表示されない場合は「Googleマップで沼田公園を開く」から。

🚃 アクセス詳細

電車でのアクセス

出発地 路線・乗り換え 最寄駅
東京方面 上越新幹線→高崎→JR上越線 沼田駅
高崎方面 JR上越線(直通) 沼田駅

沼田駅から城までは徒歩約15〜20分。駅は段丘の下、城は段丘の上にあるため、後半は登り坂になります。歩きに不安のある方は、駅前からのタクシー利用も便利です。

坂を登りきって城跡にたどり着いたときの達成感もまた、沼田ならではの旅情です。段丘の高低差は、城が要害だったことを身体で実感させてくれる「生きた教材」でもあります。時間と体力に余裕があれば、あえて駅から歩いて、城下町の街並みを眺めながら向かうのもおすすめです。

車でのアクセス

関越自動車道「沼田IC」からおよそ10分。沼田公園には無料駐車場があり、ドライブ旅にも向いています。カーナビには住所「群馬県沼田市西倉内町594」を入力するとスムーズです。桜の季節は周辺道路が混み合い、駐車場も早い時間に満車となるため、繁忙期は時間に余裕を持ち、市街地のコインパーキングも確認しておくと安心です。

🔖 続日本100名城スタンプ・御城印

沼田城は続日本100名城(No.116)に選定されており、スタンプ収集の対象です。御城印とあわせて観光案内所で入手できます。

スタンプ設置場所 沼田市観光案内所(沼田公園駐車場の敷地内)
営業時間 夏季(3〜11月)9:00〜17:00/冬季(12〜2月)9:00〜16:00
休館日 年末年始
御城印 1枚 300円(観光案内所で販売。月替わりの限定版が出ることも)

尊敬する小和田先生から

【続日本100名城に認定された沼田城の認定証】

📝 注意:案内所が閉まる冬季16時以降はスタンプ・御城印が入手できません。到着時間にご注意ください。

⚠️ 現地訪問の注意事項

No. 注意事項
1 天守は現存しません。五層天守は江戸時代に破却済み。天守の姿は館内の模型で。
2 高低差が大きい。駅から徒歩の場合は段丘の坂を登ります。歩きやすい靴を。
3 遺構は土塁・堀・石垣が中心。説明板を読みながら歩くと理解が深まります。
4 桜の季節は大混雑。駐車場は早い時間に満車。公共交通の併用も検討を。
5 ドローン撮影は禁止(特別許可を除く)。三脚も混雑時は配慮を。

📸 現地写真と見どころ

ここからは、訪問した順に見どころを写真とともにご紹介します。

見どころ ひとことメモ
五層天守の模型 観光案内所内。失われた天守の姿を伝える
鐘楼・城鐘 真田信吉様鋳造の本物の鐘が残る
御殿桜・西櫓台石垣 樹齢400年の桜と唯一の本物の石垣
平八石 沼田平八郎景義様ゆかりの伝承の石
土塁・堀跡 城の骨格が残る。縄張りを読み解こう
大天狗面・天空の眺望 迦葉山ゆかりの天狗面と上州の山々

① 観光案内所と「幻の五層天守」模型

城めぐりは、駐車場わきの沼田市観光案内所から始めるのがおすすめです。入口には真田の六文銭をあしらった幟がはためき、武将のパネルが旅人を迎えます。ここはスタンプ・御城印の窓口であり、城の予習をする場としても最適です。

 今回訪問時はクイズ形式のゲームを実施しており、難易度に分かれて御城印がもらえるキャンペーンを実施していました。

【真田の幟がはためく観光案内所の入口】

館内に入ると、まず目に飛び込んでくるのが沼田城 五層天守の模型です。黒漆喰をまとった重厚な五重の天守は、関東でも屈指の規模を誇ったという当時の威容を伝えています。真田信之様が築き、のちに破却によって地上から消えた「幻の天守」。その姿を、私たちはこの模型を通して偲ぶことができます。

模型の前に立つと、失われたものの大きさが静かに迫ってきます。かつてこの段丘の上に、五重の天守が本当にそびえていた——その事実を心に刻んでから園内へ向かうと、このあと出会う土塁や石垣の一つひとつが、ぐっと意味を帯びて見えてきます。館内には甲冑や真田家ゆかりの資料も並び、城歩きの予習にうってつけです。歩き出す前に、まずはここでしっかりと時代背景を頭に入れておきましょう。

【関東屈指の規模を誇った五層天守の復元模型】

【古絵図とともに展示される天守模型】

【甲冑や資料も並ぶ館内展示】

📘 豆知識:沼田城の五層天守は、関東の城では数少ない本格的な五重天守でした。築かれた年には慶長二年(1597年)説慶長十二年(1607年)説があり、今も研究者の関心を集めています。

② 「沼田城址」の石碑と説明板

園内へ進むと、堂々たる「沼田城址」の石碑が現れます。傍らの説明板には、群馬県指定史跡としての沿革が記され、これから歩く城跡の見取り図を頭に描くのに役立ちます。冬枯れの木立の中、石碑だけが時を超えて佇む姿は、訪れる者の背筋をそっと正してくれます。

石碑のまわりには、県指定史跡としての沿革を記した説明板のほかにも、沼田城の歴史を伝える案内が点在しています。一枚ずつ読み歩けば、城の規模や曲輪の配置が少しずつ頭の中で形を結んでいきます。歴史を知ってから歩く城跡は、ただの公園とはまったく違う表情を見せてくれます。

【冬枯れの木立に佇む石碑】

【園内に立つ「沼田城址」の石碑】

【沼田城跡の沿革を記した説明板】

【城の歴史を伝える現地パネル】

③ 鐘楼と真田の城鐘

本丸跡に再建された鐘楼は、園内でもっとも目を引く建造物です。黒い板張りの、上にすぼまる四方転びの櫓に吊るされているのは、真田信吉様(信之様の長男)が鋳造させたと伝わる城鐘そのもの。沼田城が徹底的に破却されてもなお失われずに残った、数少ない「本物」のひとつです。天守も御殿も消えたなかで、この鐘だけが真田の世から時を超えて鳴り響いてきました。

梵鐘の肌を見上げると、かつて城下に時を告げていたその音が、今にも響いてきそうです。鐘の音そのものは形を持ちませんが、鐘が残ったことで、私たちは在りし日の沼田城の「音」にまで思いを馳せられます。鐘楼は、沼田城が見るだけでなく、心の耳で「聴く」城でもあることを教えてくれる、大切な見どころです。

この城鐘が、城の破却という荒波を越えて今に残ったこと自体が、ひとつの奇跡です。天守や御殿が失われるなかで、なぜ鐘だけが守られたのか——そこには、城が消えても時を告げる鐘の音だけは絶やすまいとした、土地の人々の想いがあったのかもしれません。鐘楼の前では、ぜひ静かに耳を澄ませてみてください。四百年の時が、そっと語りかけてくるはずです。

【本丸跡に再建された鐘楼】

【四方転びの櫓に吊るされた城鐘】

【城鐘の由来を記した銘板】

④ 御殿桜と西櫓台の石垣

沼田城を象徴する名木が、樹齢およそ400年御殿桜(ごてんざくら)です。樹高16.5メートル、幹回り4メートルを超えるエドヒガンの巨木で、群馬県を代表する古木のひとつ。沼田顕泰様の築城(1532年)から、真田信之様の五層天守完成(1607年とも)の間に植えられたと伝わり、城の栄華と滅亡のすべてを見つめてきた生き証人です。

注目すべきは、この巨木が「西櫓台」の石垣の上に根を張っていること。桜を支えるこの石積みこそ、徹底破却を生き延びて沼田城で唯一はっきり残る本物の戦国の石垣です。すぐそばの「沼田城の石垣」と題した解説板とあわせて、ぜひ間近にご覧ください。

冬枯れの時期には、葉も花もない裸の枝が空へ大きく腕を広げ、その骨格の力強さに息をのみます。そして四月の初め、御殿桜は枝いっぱいに淡い薄紅の花をまとい、石垣の上から城跡を見下ろすように咲き誇ります。古木ならではの風格と、可憐な花の対比こそが、城跡随一の絶景として多くの花見客を引き寄せてやみません。沼田城の主役と呼ぶにふさわしい名木です。

石垣そのものに目を向けると、自然石を巧みに積み上げた素朴な構えが見てとれます。総石垣の近世城郭とは異なる、戦国の気風を残した石積みです。四百年の桜と、それを支える戦国の石垣。この二つが一体となった景色は、ほかの城ではなかなか味わえない、沼田城ならではの名場面です。花の季節はもちろん、葉を落とした冬にこそ、石垣と古木の力強い造形がくっきりと際立ちます。

【枝を大きく広げる樹齢400年の御殿桜】

【御殿桜と鐘楼が並ぶ本丸跡の景】

【御殿桜の由来を記したバイリンガル説明板】

【沼田城で唯一はっきり残る本物の石垣】

【石垣の遺構を解説する案内板】

⑤ 平八石(へいはちいし)

柵に囲まれて静かに据えられた大きな平石が、平八石です。旧領の奪回を志して討たれた武将沼田平八郎景義様の首を載せたと伝わる、いわくのある石。勝者・真田の華やかな物語の影で散っていった、敗者の無念を今に伝えています。詳しいいきさつは、後段の歴史解説【四】でお話しします。

何も知らずに通り過ぎれば、ただの大きな石にしか見えません。けれど、この石が背負う物語を知ってから向き合うと、その沈黙が急に重く感じられます。勝者の記録には残らない敗者の無念を、平八石は静かに今に伝えています。城跡を「楽しい観光地」として歩くだけでなく、ここで一度立ち止まり、勝者と敗者の双方に思いを馳せる。そうすることで、沼田城めぐりはぐっと深いものになります。

【沼田平八郎景義様ゆかりの平八石】

⑥ 土塁・堀跡 ―― 城の骨格を歩く

天守や御殿は失われても、城の「骨格」は地面にしっかり刻まれています。園内をめぐれば、人の背丈を超える土塁のうねり、水をたたえた堀跡、蔦の絡む険しい切岸が次々に現れます。河岸段丘の天然の崖と、人の手で築かれた土の防壁。この二つが重なり、沼田城は容易に落ちない堅城となっていました。説明板の縄張り図と見比べながら、かつての曲輪の配置を想像しながら歩くのが、城跡歩きの醍醐味です。

水をたたえた堀跡が冬空を鏡のように映す姿は、しんと静まり返って美しく、ここが戦の城だったことをしばし忘れさせてくれます。けれど、堀の深さや土塁の高さを目で測れば、これを攻め登る困難さがたちまち腑に落ちます。建物がないからこそ、地形そのものに残された設計者の意図を、自分の足と目で読み解く——これこそ「土の城」を歩く醍醐味なのです。

【冬空を映す堀跡の水面】

【蔦に覆われた土塁の切岸】

【土塁に沿って続く園路】

【園内に残る石組みの跡】

⑦ 大天狗面と園内の社

沼田の地を語るうえで欠かせないのが天狗です。市内には「日本三大天狗」のひとつ迦葉山(かしょうざん)弥勒寺があり、古くから天狗信仰でにぎわってきました。その縁にちなみ、観光案内所には木彫りでは日本一とも称される大天狗面が鎮座しています。真っ赤な顔と高い鼻に、思わず背筋が伸びます。園内には小さな社や朱塗りの鳥居・稲荷もあり、城が信仰の場でもあったことを物語っています。

沼田と天狗の結びつきは深く、市の北方にそびえる迦葉山は、白旗(しらはた)ならぬ天狗の霊山として古くから信仰を集めてきました。願いを込めて天狗面を授かり、願いが叶えば一回り大きな面を返すという「面替え」の風習も伝わります。城跡で出会う真っ赤な大天狗面は、沼田という土地の信仰の厚さを、訪れる人に強く印象づけてくれます。城と寺社、武と祈り——この土地では、その両方が分かちがたく結びついているのです。

【木彫り日本一とも称される大天狗面】

【園内に祀られる小さな社】

【城跡に佇む朱塗りの鳥居】

⑧ 天空の眺望

沼田城のもうひとつの魅力が眺望です。河岸段丘の高みに築かれているため、園の縁からは沼田の市街地と、その奥に連なる上州の名峰がパノラマで広がります。空気の澄んだ日には谷川連峰の稜線まで望めます。なぜこの地が戦国の要衝だったのか、敵の動きを遠くまで見通せるこの眺めが、その答えを教えてくれます。

この眺望は、観光の絶景であると同時に、戦国の武将たちにとっては「戦略の眺め」でもありました。敵の進路を遠くまで見渡せ、背後は険しい崖に守られる——沼田城が三大勢力に欲しがられた理由が、この高台に立てば理屈ぬきで伝わってきます。景色を楽しみながら、かつてここに立った武将が同じ山並みに何を見ていたのかを想像してみると、城めぐりはいっそう深いものになります。

【段丘の上から望む沼田市街と上州の山々】

【鉄柵越しに連なる谷川連峰】

⑨ 武将パネルとフォトスポット

園内には「沼田の歴史物語」と題した解説パネルが点在し、ゲーム『戦国無双』とコラボした等身大の武将パネルが立っています。小松姫様(稲姫)をはじめ、真田ゆかりの面々が城跡を彩ります。「小松姫 其之弐」のパネルには、関ヶ原の折に舅・昌幸様を退けた逸話が紹介されており、物語を味わいながら歩けます。

 小松姫様は徳川四天王の一人として有名な本多忠勝様の娘です。

【小松姫様の逸話を伝える解説パネル】

【桜並木に立つ武将・真田信繫(幸村)様の等身大パネル】

【山並みを背にした真田昌幸様の撮影スポット】

⑩ 園内のさんぽ道と訪問の記録

見どころの間をつなぐ園路もまた味わい深いものです。木立を抜けると現れる鳥居の参道、石碑や歌碑の点在する静かな一角——歩く速さをゆるめると、案内図に載らない小さな発見があります。観光案内所には訪れた人が思いを書き留める芳名帳が置かれていることもあり、全国の城好きの一言に目を通すと、この城がいかに愛されているかが伝わります。

【木立を抜けた先の鳥居】

【木陰に佇む石碑】

【園内の見どころが分かる観光案内図】


⑪ その他の見どころ ―― 説明板と園内の風景

沼田公園には、これまで紹介しきれなかった見どころがまだまだあります。園内には沼田城の歴史を伝える説明板や案内パネルが数多く設置されており、一枚ずつ読み歩くだけでも、城の全体像がぐっと立体的に見えてきます。本丸・二の丸・三の丸の位置関係を確かめながら歩けば、ただの公園が「巨大な歴史の教科書」に変わります。冬枯れの園内は人も少なく、自分のペースでゆっくりと史跡と向き合えるのも魅力です。

説明板は文字が多く、つい読み飛ばしたくなるかもしれません。けれど、そこに記された一行一行が、現地でしか得られない確かな情報です。スマートフォンで写真に撮っておけば、帰宅後にゆっくり読み返すこともできます。現地の解説と、この記事のような事前知識を重ね合わせると、沼田城の理解は何倍にも深まります。

【園内に立つ歴史解説の立て看板】

【城の絵図とともに歴史を学べるパネル】

【遺構のそばに置かれた解説プレート】

【自然石を生かした園内の石碑】

【城跡から望む上州の山並み】

【歴史案内板】

園内をさらに歩けば、庭園のように整えられた一角や、ベンチの置かれた休憩スポット、季節の草花が彩る小道など、思い思いに過ごせる場所がいくつもあります。史跡でありながら市民の憩いの場でもある——その二つの顔をあわせ持つのが、沼田公園のいいところです。歴史に浸ったあとは、ベンチに腰かけて、段丘の風に吹かれながらひと休みするのもおすすめです。

【石や草木が配された園内の景】

【園内の社殿を間近に望む】

【落ち着いた雰囲気の散策路】

🏯 コラム:沼田城の地形と縄張り

沼田城は、利根川の左岸にせり出した河岸段丘の突端に築かれました。台地は川面からおよそ70〜80メートルの高さがあり、西と南は切り立った崖、北と東も谷や沢に守られています。人が手を加えるまでもなく、自然そのものが堅固な城壁の役割を果たす「天然の要害」でした。

この立地の妙こそ、沼田城が戦国の世に幾度も奪い合われた最大の理由です。攻める側は急峻な崖を登らねばならず、守る側はわずかな兵力でも大軍を食い止められる。地形の有利を最大限に生かしたこの城は、まさに「土地そのものが武器」だったのです。

台地の上には、中心の本丸二の丸三の丸が囲み、外側に侍屋敷と城下町が広がっていました。本丸には五層天守がそびえ、要所に櫓が置かれました。御殿桜の立つ「西櫓台」も、本丸の西を守る櫓の土台だった場所です。城を歩くときは「一段高い平場=曲輪」「落ち込む斜面=切岸・堀」「盛り上がった土手=土塁」と意識すると、建物がなくとも縄張りが読み解けます。

沼田城は、近世城郭でありながら、戦国の山城・丘城の性格を色濃く残した城でもあります。石垣で全体を固めた総石垣の城とは異なり、土塁と堀、そして段丘の自然地形を巧みに組み合わせて守りを固めていました。だからこそ、建物が失われた今でも、地形を読むことで往時の防御の工夫を体感できるのです。城歩きに慣れた方も、初めての方も、ここでは「土の城」の面白さをたっぷり味わえます。

🔎 用語ミニ解説
曲輪(くるわ)……城内を区切った平らな区画。本丸・二の丸など。
土塁(どるい)……土を盛って築いた防御の壁。
切岸(きりぎし)……斜面を削り、よじ登れなくした人工の崖。
櫓台(やぐらだい)……物見・防御の櫓を建てた土台。

【曲輪の配置が分かる案内板】

🌸 コラム:御殿桜と沼田公園の四季

沼田公園は四季それぞれに表情を変えます。とりわけ春の桜は格別で、御殿桜とソメイヨシノがいっせいに咲き、「沼田公園桜まつり」でにぎわいます。花の盛りはおおむね四月上旬。城の遺構をじっくり観察したいなら、藪の落ちる冬がよく見えます。

なお、樹齢四百年の御殿桜は、毎年あたりまえに花を咲かせているわけではありません。台風や落雷、病害との闘いを越えて、今年もまた枝を伸ばし、蕾をふくらませています。城は滅びても、桜は生き、人がそれを守り継ぐ——沼田公園の四季は、受け継がれていくものの尊さを静かに教えてくれます。

季節 たのしみ
🌸 春 御殿桜・ソメイヨシノが満開。もっとも華やぐ季節(4月上旬が目安)
🌿 夏 深い緑に包まれ、木陰が涼やか
🍁 秋 紅葉が園内を染め、落ち着いた散策が楽しめる
❄ 冬 葉が落ち、土塁・堀・石垣がもっともよく見える「城歩きの季節」

📖 歴史解説 ―― 古天明平蜘蛛が語る沼田城

ここからは、私・古天明平蜘蛛が、沼田城の歩んだ五百年の道のりを時の流れにそってお話しします。中世の沼田氏による築城に始まり、三大勢力の争奪、真田の登場、五層天守の完成、そして改易・破却から公園化まで——一つの城の一生には、戦国という時代の縮図が詰まっています。釜の身でありながら戦国を見つめてきた語り部の昔語りとして、どうぞお付き合いください。

語り手:史跡訪問者「古天明平蜘蛛」

【一】沼田氏の築城 ―― 天文元年(1532年)

沼田の地は、利根川と薄根川・片品川が刻んだ河岸段丘の上に開けた、天然の要害です。守るに易く、攻めるに難いこの地に本格的な城を築いたのが、利根郡の土豪・沼田氏の当主沼田顕泰様でした。天文元年(1532年)、それまでの居館に代わる本城として沼田城を起こします。越後と関東を結ぶ街道を扼するこの城は、上野国北部を押さえる戦略の要となりました。しかし要衝であることは、絶えず強者に狙われることでもあります。沼田氏は一族の内紛も抱え、城は早くから波乱の運命を背負っていきました。

沼田氏が築いたこの城は、はじめは中世の館に近い素朴な構えだったと考えられています。しかし利根・吾妻・片品の三つの谷が交わるこの地は、北関東と越後を結ぶ交通の結節点。誰がこの台地を握るかで、上野国北部の勢力図が大きく動きました。沼田城が単なる一豪族の居城にとどまらず、戦国史の表舞台へ引き出されていったのは、まさにこの地理ゆえだったのです。

【二】三つ巴の争奪戦 ―― 上杉・武田・北条

沼田は越後(上杉)・甲斐(武田)・相模(北条)という三大勢力がぶつかり合う国境の地でした。北は三国峠を越えて越後へ、南は関東平野へ、西は吾妻から信濃へ通じる結節点であり、ここを制する者が上野国の北半を握ると言われました。沼田氏内部の家督争いも絡み、城主はめまぐるしく入れ替わります。上杉謙信様が関東へ出兵すればその傘下に入り、武田信玄様が西上野へ手を伸ばせばその影響下に置かれる——沼田城は、大国の手から手へと渡されていきました。この危うい立地が、やがて真田と北条の十年に及ぶ死闘を招くことになります。

この時期の沼田は、まさに「国境の城」の宿命を一身に背負っていました。城主が代わるたびに城下も巻き込まれ、人々は幾度も戦火の下にさらされます。それでも沼田が見捨てられなかったのは、ここを失えば背後の所領まで一気に脅かされるという、どの勢力にとっても譲れない事情があったからにほかなりません。沼田城は、東国の覇権を映す鏡のような存在でした。

【三】真田、沼田を獲る ―― 天正八年(1580年)ごろ

武田家中で知略をもって頭角を現したのが真田昌幸様です。昌幸様は武力だけでなく巧みな調略を駆使し、天正八年(1580年)ごろ沼田城を手中に収めました。これにより沼田は真田氏の上野支配の拠点となります。しかし天正十年(1582年)、武田家が滅び、続いて本能寺で織田信長様が斃れると、関東の勢力図は一夜にして塗り替えられました。主家を失った国衆は生き残りをかけて諸勢力の間を渡り歩く「天正壬午の乱」に突入し、昌幸様もまた沼田と岩櫃という生命線を握り続けます。とりわけ沼田をめぐる北条氏との対立は、抜き差しならぬところまで深まっていきました。

この頃の昌幸様の立ち回りは、まさに乱世の知将の面目躍如でした。後ろ盾の大国を次々と乗り換えながらも、沼田と岩櫃だけは決して手放さない——一見すると節操がないようでいて、その実、真田が生き残るための一本の太い芯が通っていたのです。小勢力が大国の狭間で生き抜くには、武勇だけでは足りません。沼田城は、その冷徹な現実主義の象徴でもありました。

【四】平八石の悲話 ―― 沼田平八郎景義

真田が沼田を治める一方、心穏やかでなかったのが、もとの城主・沼田氏の血を引く沼田平八郎景義様でした。父祖伝来の地を奪われた無念から、景義様は旧領の奪回を志して兵を挙げます。しかし相手は智略無双の真田昌幸様。正面からの戦を避け、帰参をちらつかせて景義様を城へ誘い込み、隙を突いて討ち取ったと伝わります。その首は城へ運ばれ、伝承によれば検分の際に首を載せたのが園内に残る平八石です。華やかにうたわれる真田の物語の影には、こうして消えていった者たちの無念が横たわっています。史跡を歩くとは、勝者と敗者の双方の物語に耳を澄ますことなのです。

【五】名胡桃城事件と小田原征伐 ―― 天正十七〜十八年

沼田領をめぐる真田と北条の争いは決着がつかず、ついに天下統一を進める豊臣秀吉様のもとへ持ち込まれます。天正十七年(1589年)、秀吉様は沼田領の約三分の二を北条方に、名胡桃城を含む三分の一を真田方に、と裁定しました。ところがその直後、沼田城に入った北条方の家臣が、真田方に残された支城名胡桃城を謀略で奪う事件を起こします。天下人の裁定を踏みにじるこの暴挙は「惣無事令」違反とされ、翌天正十八年(1590年)の小田原征伐の口火となりました。難攻不落の小田原城も天下の物量の前に降伏し、五代百年にわたり関東に君臨した北条氏は滅亡。戦後処理によって沼田城は再び真田氏のもとへ戻りました。一つの城の奪い合いが、関東の覇者を滅ぼす引き金となったのです。

名胡桃城事件をめぐっては、北条方の言い分も伝わっており、事の経緯には今も諸説があります。しかし結果として、この一件が天下統一の総仕上げの口実となったことは動かしようのない事実です。小さな支城ひとつをめぐる小競り合いが、巨大勢力の運命を決した——沼田の地が背負った重みを、これほど雄弁に物語る出来事もありません。歴史とは、時にこうした小さな点から大きく動き出すものなのです。

◆ 沼田をめぐる主な攻防・できごと

できごと 意味
三勢力の争奪 上杉・武田・北条が沼田を狙い、城主が二転三転
真田の奪取 昌幸様が調略で攻略、真田の上州支配が始まる
沼田領裁定 秀吉様が領地を分割。沼田城は北条方へ
名胡桃城事件 惣無事令違反となり小田原征伐の口実に
小田原征伐 北条氏滅亡。沼田は真田信之様の手へ

【六】真田信之と五層天守 ―― そして名城へ

小田原征伐の後、沼田を治めることになったのが、昌幸様の長男真田信之様です。信之様は徳川四天王本多忠勝様の娘で、徳川家康様の養女となった小松姫様(稲姫)を正室に迎えていました。沼田城主となった信之様は城を近世城郭へと大改修し、慶長年間に五層五階の壮大な天守を築き上げます。当時の関東でも最大級のこの天守は、河岸段丘の高みから真田の威勢を天下に示しました。御殿桜が植えられたのも、ちょうどこの城が完成へと向かう頃と伝わります。観光案内所の天守模型は、この輝かしい姿を今に伝える「在りし日の沼田城」の写し絵です。

信之様は、真田家の長兄として、戦乱の世から泰平の世へと移りゆく時代をしたたかに生き抜いた人物です。豪胆で鳴らした父・昌幸様や、悲劇の名将としてうたわれる弟・信繁様の陰に隠れがちですが、九十年を超える長寿を保ち、真田の家名を江戸の世まで確かに伝えたのは、ほかならぬこの信之様でした。沼田城の壮麗な天守は、その堅実にして大胆な人となりを、そのまま形にしたものだったのかもしれません。

【真田の名城・沼田城の記憶を伝える石碑】

【七】小松姫、舅を退ける ―― 関ヶ原の逸話

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、真田家は苦渋の決断を下します。父・昌幸様と次男・信繁様(のちの幸村)は西軍へ、長男・信之様は東軍へと、あえて敵味方に分かれました。家名を残すための非情な知恵、世にいう「犬伏の別れ」です。西軍へ向かう昌幸様の一行が「孫の顔が見たい」と沼田城に立ち寄ろうとしたとき、留守を預かる小松姫様は緋縅の鎧に身を固め、「たとえ舅君であろうとも、今は敵。城へは入れられません」と毅然と門を閉ざしました。しかし後刻、城外の寺で休む昌幸様のもとへ孫たちを伴って出向き、嫁として心を尽くしてもてなしたといいます。公私のけじめを貫きながら情も忘れぬその身の処し方に、昌幸様も深く感じ入ったと伝わります。沼田城に語り継がれる、もっとも凛とした名場面です。

【八】真田五代と改易・破却 ―― 天和元年(1681年)

関ヶ原ののち、信之様は加増され、やがて信濃松代へ移ります。沼田は長男・真田信吉様の系統が分家として継ぎ、以後、真田氏の沼田藩として五代を数えました。鐘楼に残る城鐘は、この信吉様が鋳造させたものです。しかし五代真田信利様の代、本家への対抗から実高を超える石高を申告したことが領民への過酷な収奪を招き、さらに幕府の御用材調達の遅延が決定打となって、天和元年(1681年)に改易。翌年、幕府の命によって沼田城は五層天守もろとも徹底的に破却されました。築城から約百五十年、真田の名城は皮肉にも真田の手によって幕を下ろします。園内に天守の礎ひとつ残らないのは、この破却の徹底ぶりを物語っています。

五代・信利様の改易は、単なる失政の結果としてだけでは語れません。本家・松代との確執、過大な見栄、そして時代が求める統治の質の変化——いくつもの要因が重なって、名門・真田の沼田支配は幕を下ろしました。栄華を極めた城ほど、その最期は静かで、そして徹底しています。私は数多の城の興亡を見てきましたが、沼田城の破却ほど、人の世の無常を強く感じさせるものはありませんでした。

【九】沼田藩の再興と土岐氏 ―― 江戸後期

改易後、沼田はしばらく天領となりますが、元禄十六年(1703年)、本多正永様が二万石で入封し、沼田藩は再興します。本多氏は奇しくも小松姫様の生家・忠勝様の一族につらなる名門でした。その後、藩主は黒田氏を経て土岐氏へと引き継がれ、土岐氏が幕末まで沼田を治めます。ただし破却された城が往時の姿で再建されることはなく、藩庁は天守を持たない簡素な陣屋構えのままでした。沼田の人々は、絢爛たる五層天守の記憶を絵図や言い伝えの中に大切にしまっていったのです。

【十】公園として甦る ―― 大正〜現代

明治維新で城の役割は終わりますが、沼田城は一人の人物に救われました。旧沼田藩士の家に生まれ実業家となった久米民之助です。久米は荒れゆく城跡を惜しみ、大正五年(1916年)に私財を投じて城地を買い取り、公園として整備します。そして大正十五年(1926年)、これを沼田町(現・沼田市)へ寄贈しました。こうして城跡は沼田公園として甦り、市民の憩いの場、そして真田の歴史を伝える史跡として新たな命を得ます。平成二十九年(2017年)には続日本100名城(No.116)に選定されました。築城から約五百年、沼田城の物語は形を変えながら、今もなお続いています。

久米民之助という一人の旧藩士の篤志がなければ、沼田城跡は今のような形では残らなかったかもしれません。城を守るのは、もはや武力ではなく、土地を愛し、記憶を語り継ごうとする人々の想いです。御殿桜を守り、鐘を吊るし、説明板を立て、訪れる人を迎える——その営みのすべてが、沼田城を「生かし」続けているのです。城の歴史は築城で始まり、破却で終わるのではありません。語り継がれるかぎり、城は生き続けるのです。

◆ コラム:小松姫様という女性

沼田城を語るうえで、小松姫様(稲姫)の存在は欠かせません。徳川四天王・本多忠勝様の娘として生まれ、徳川家康様の養女となって真田信之様に嫁いだ彼女は、武家の女性の理想像として今も語り継がれています。関ヶ原の折に舅・昌幸様を城門で退けた逸話はあまりに有名ですが、その本質は「冷酷さ」ではなく、公私のけじめと深い情の両立にありました。敵となった舅を城へは入れず、しかし孫を会わせる心遣いは忘れない——この絶妙な均衡こそ、彼女の聡明さを物語っています。

小松姫様はやがて沼田の地で生涯を閉じたと伝わり、ゆかりの寺院には墓所が残ります。城跡の園内に立つ小松姫様のパネルや石像は、土地の人々が今も彼女を敬い、誇りに思っている証です。戦国の女性は記録に残りにくいものですが、沼田では、彼女の物語が確かに受け継がれているのです。

◆ 真田三代と沼田支配

人物 沼田での役割
初代・真田昌幸様 沼田城を奪取し、真田の上州支配の礎を築く
二代・真田信之様 五層天守を築き、城を近世城郭として完成させる
沼田藩・信吉様以降 分家として沼田藩五代を継ぐ。城鐘を鋳造
五代・信利様 改易により沼田城の破却を招く

🕐 沼田城 年表(早わかり)

できごと
天文元年(1532) 沼田顕泰様が沼田城を築く
16世紀半ば 上杉・武田・北条が沼田を争奪
天正8年(1580)頃 真田昌幸様が沼田城を奪取
天正17年(1589) 名胡桃城事件が起こる
天正18年(1590) 小田原征伐後、沼田は真田信之様へ
慶長年間(1600年代初頭) 五層天守が完成。御殿桜もこの頃の植樹と伝わる
慶長5年(1600) 関ヶ原。小松姫様が舅・昌幸様を退ける逸話
天和元年(1681) 真田信利様が改易、翌年に城は破却
元禄16年(1703) 本多正永様が入封、沼田藩を再興
大正5〜15年(1916〜26) 久米民之助が整備し沼田町へ寄贈、沼田公園となる
平成29年(2017) 続日本100名城(No.116)に選定

👤 沼田城をめぐる主な人物

人物 沼田城との関わり
沼田顕泰様 沼田氏当主。1532年に沼田城を築いた築城主
真田昌幸様 沼田城を奪取し真田の拠点とした知将。信之様の父
真田信之様 沼田城主。五層天守を築いた中興の祖
小松姫様(稲姫) 信之様の正室。本多忠勝様の娘。舅を退けた逸話で名高い
真田信吉様 信之様の長男。鐘楼に残る城鐘を鋳造させた
真田信利様 真田氏五代目。改易により沼田城破却を招く
沼田平八郎景義様 旧領奪回を図り討たれた武将。平八石の由来
久米民之助 城地を整備し沼田公園として遺した実業家

🍵 古天明平蜘蛛による歴史感想記

── 古天明平蜘蛛の記 ──

私は古天明平蜘蛛。釜師の手によって生まれ、幾多の武将の茶席を彩り、乱世の嵐をくぐり抜けてきた茶釜です。今回は上野国の沼田城を訪ねました。天守を失って久しいこの地を歩いて、まず胸に迫ったのは、「失われたものの大きさ」でした。関東随一とうたわれた五層天守は、もはや礎ひとつ地上に残っていません。それでも御殿桜は四百年を生き抜き、鐘楼には真田の城鐘が今も吊られ、平八石は血の記憶を抱いて沈黙しています。建物は消えても、城の物語は消えなかったのです。

栄華と滅亡を、ひと続きの景色として

私は多くの名将の茶席に置かれ、栄華の極みも、家の滅びも、間近に見届けてきました。だからこそ沼田城の歴史には、特別な感慨を覚えます。真田信之様が天守を築いた誇り、小松姫様が門を閉ざした覚悟、そして信利様が城を失った無念——それらは別々の出来事ではなく、この段丘の上に折り重なった、ひと続きの景色なのです。冬枯れの静かな園内を歩くと、その重なりが足の裏から伝わってくるように感じられました。

城が築かれ、栄え、そして滅びる。その一部始終を見届けてきた私には、沼田城の静けさが、決して「ただの空白」には思えません。むしろ、すべてを経験し尽くした者だけが持つ、深い落ち着きのように感じられます。賑わいを失った城跡だからこそ語れることが、確かにあるのです。

茶の道に通じる、沼田の物語

茶の道では、主と客の呼吸が合わなければ、よい茶席にはなりません。真田が沼田を手放さなかったのも、突き詰めれば「この地が我が家の命運を支える」という確信ゆえでした。城ひとつをめぐって北条氏が滅び、天下統一が完成へ向かった——一国の興亡が、たった一つの台地に凝縮されている。沼田城ほど、土地と歴史の結びつきを濃く感じさせる城も、そう多くはありません。

「読む城」「想う城」として

沼田城を訪れて改めて思うのは、史跡とは「大きくて立派であること」が値打ちなのではない、ということです。その場所に宿る記憶と、それを語り継ごうとする人々の想いこそが、史跡を史跡たらしめます。天守を失った沼田城が今も多くの人を惹きつけてやまないのは、まさにこの土地に物語が息づいているからにほかなりません。

派手な天守を期待して訪れると、物足りなく感じるかもしれません。けれど、説明板を一枚ずつ読み、土塁のうねりを指でなぞり、御殿桜を見上げて時を想うなら、沼田城は静かに応えてくれます。戦国の乱世を生き抜いた一個の釜として、私は歴史が語り継がれることの尊さを誰よりも知っています。どうかこの城を訪れる方が、写真を撮るだけでなく、ここで起きた歴史の重みに少しでも思いを馳せてくださるなら、これほど嬉しいことはありません。次は、ぜひ桜の咲く頃に、また釜を運びたいと思います。

── 古天明平蜘蛛


👺 コラム:天狗の里・沼田

沼田を語るとき、もうひとつ忘れてはならないのが天狗信仰です。市の北方にある迦葉山弥勒寺は、東京の高尾山、京都の鞍馬山と並ぶ「日本三大天狗」のひとつに数えられる霊場で、その大天狗面は圧巻の迫力を誇ります。観光案内所に展示された木彫りの大天狗面も、この迦葉山の信仰につらなるものです。

戦国の城と天狗の霊山——一見すると無関係に思えますが、沼田の人々にとっては、どちらも土地を守り、心の拠りどころとなってきた大切な存在です。城跡で真田の歴史に触れ、天狗面でこの地の信仰を感じる。沼田は、武と祈りが重なり合う、奥行きの深い土地なのです。城めぐりとあわせて、ぜひ迦葉山にも足を延ばしてみてください。

🏙️ コラム:天空の城下町・沼田

沼田の魅力は、城跡だけにとどまりません。城の足元に広がる沼田の市街地そのものが、河岸段丘の上に開けた珍しい「天空の城下町」なのです。早朝、利根の谷に雲海が立ちこめると、街はまるで雲の上に浮かぶ城下のように見え、その幻想的な姿が「天空」の名の由来となっています。

城下町には、真田の時代から続く道筋や、老舗の和菓子店、味噌・醤油の蔵などが今も残り、歩くだけで歴史の気配を感じられます。城跡で戦国の記憶に触れたあとは、ぜひ段丘を下りて城下町を散策してみてください。高台の城と、その下に広がる町。両方を歩いて初めて、沼田という土地の全体像が見えてきます。城と町は、もともと一体のものだったのです。

城下町には、かつての面影を伝える地名や寺社も点在しています。真田の時代に整えられた町割りの名残を探しながら歩けば、平面の地図が立体的な歴史空間に変わっていきます。グルメも沼田の楽しみのひとつで、地元で愛される和菓子や、上州ならではの味覚が旅人を待っています。城跡で歴史に触れ、城下町で土地の暮らしを味わう——その両方がそろって、はじめて沼田の旅は完成します。

【段丘の上から広がる天空の城下町】

🎴 コラム:御城印・スタンプ集めの楽しみ

スタンプや御城印は、ただ集めるだけでなく、旅の記録そのものになります。御城印には日付を入れてもらえることも多く、後から見返すと「あの日、あの空の下で沼田城を歩いた」という記憶が鮮やかによみがえります。スタンプ帳や御城印帳を一冊用意して、訪れた城を綴っていく——それは、自分だけの戦国絵巻を編んでいくような、ささやかで豊かな愉しみです。沼田城を起点に、名胡桃城・岩櫃城と、真田ゆかりの城々へ旅を広げてみてはいかがでしょうか。

御城印は近年とくに人気が高まっており、限定デザインを目当てに何度も足を運ぶ愛好家も少なくありません。城ごとに意匠が異なり、家紋や城名の書体に、その土地の個性がにじみます。沼田城の御城印には真田の六文銭が映え、戦国ファンの心をくすぐります。一枚一枚を集めるうちに、いつしか日本各地の城と歴史に詳しくなっている——御城印集めには、そんな嬉しい副産物もあるのです。

👣 観光で行く人へのポイント

📅 ベストシーズン
桜(4月上旬)の御殿桜・ソメイヨシノが圧巻です。新緑や紅葉の季節も気持ちよく歩け、城の遺構を観察するなら葉の落ちる冬がよく見えます。

👣 おすすめのまわり方
観光案内所でスタンプ・御城印・地図を入手 → 本丸跡・鐘楼 → 御殿桜&西櫓台の石垣 → 平八石 → 土塁・堀跡 → 展望、の順が効率的です。

🥾 服装・持ち物
坂道や土の道があるため、歩きやすい靴がおすすめです。冬は冷えるので防寒を。

🙏 散策のマナー
園内には社や祈りの場もあります。静かに参拝し、ゴミは持ち帰りましょう。三脚・ドローンは原則控えてください。

⭐ ワンポイント
歴史をあらかじめ予習してから訪れると、楽しさが何倍にもなります。真田信之様・小松姫様の物語、名胡桃城事件と小田原征伐の流れを頭に入れておくと、現地の石碑や説明板が「答え合わせ」のように響いてきます。お子様連れなら、御殿桜や大天狗面など分かりやすい見どころから巡るのがおすすめです。

🏛️ あわせて訪れたい周辺史跡・モデルコース

沼田城・名胡桃城岩櫃城の三城は「真田三名城」と呼ばれます。あわせて巡ると、真田の上州支配が立体的に見えてきます。

スポット みどころ
名胡桃城(みなかみ町) 小田原征伐の引き金となった真田の支城。整備された曲輪と眺望が見事
岩櫃城(東吾妻町) 岩櫃山の険しい山城。続日本100名城(No.117)
迦葉山 弥勒寺(沼田市) 日本三大天狗の一つ。巨大な天狗面で名高い霊場
吹割の滝(沼田市) 「東洋のナイアガラ」と称される国指定天然記念物の名瀑

── おすすめモデルコース(車・1日)──
🏯 沼田城(沼田公園)でスタンプ・御城印と散策(約90分)
↓ 車で移動
🏯 名胡桃城で曲輪と眺望を満喫(約60分)
↓ 昼食は沼田の城下町でご当地グルメ
💧 吹割の滝または 👺 迦葉山弥勒寺

❓ よくある質問(FAQ)

Q. 沼田城に天守は建っていますか?
A. いいえ、現在は建っていません。五層天守は天和二年(1682年)に破却され、姿は館内の模型で見られます。

Q. スタンプ・御城印はどこで?
A. 沼田公園駐車場わきの観光案内所です(夏季9:00〜17:00/冬季9:00〜16:00、年末年始休館)。御城印は1枚300円。

Q. 駐車場は有料ですか?
A. 沼田公園の駐車場は無料です。桜の季節は満車になりやすいのでご注意を。

Q. 所要時間はどのくらい?
A. 写真を撮りながら一周で約60〜90分。説明板をじっくり読むなら2時間ほど。

Q. 雨の日でも楽しめますか?
A. 屋外が中心のため足元はぬかるみます。館内展示(天守模型・大天狗面)は屋内で楽しめます。

Q. ベビーカーや車いすでも回れますか?
A. 平坦な園路もありますが、土の道や段差・坂もあります。無理のない範囲でお楽しみください。

Q. 沼田城は日本100名城ですか?
A. 「日本100名城」ではなく「続日本100名城(No.116)」に選ばれています。両者は別のスタンプラリーです。

📘 豆知識:沼田城の破却を免れた城門が、市内の寺院などに移築されて現存すると伝わります。城の「生き残り」を探すのも、沼田めぐりの楽しみのひとつです。

📚 参考資料

資料名 備考
沼田市観光協会「沼田公園」 公式観光情報
Wikipedia「沼田城」 沿革・諸説の概要
群馬県緑化推進委員会「沼田城址の御殿桜」 御殿桜の樹齢・寸法
沼田市歴史資料館(真田氏関係資料) 平八石・城鐘ほか
攻城団「沼田城」 写真・訪問情報
現地説明板・観光案内図 沼田市・沼田市観光協会

📷 フォトギャラリー ―― 沼田城をめぐる

本文で紹介しきれなかった現地の写真をまとめてご紹介します。説明板や石垣、土塁、園内の風景など、沼田城の「いま」を多面的にお楽しみください。

【沼田城跡の説明板】

【縄張り図つきの解説パネル(ピンク)】

【園内の歴史解説板】

【パネル】

【木立の中の説明板群】

【バイリンガルな解説板】

【青緑の解説パネル】

【西櫓台の石垣(別アングル)】

【御殿桜の説明板(木枠)】

【岩の上の石碑】

【岩がちな土塁の斜面】

【城跡に残る堀・土塁の道】

【土塁の斜面に続く小道】

【園内の石組み構造物】

【園内の小さな解説サイン】

【ベンチのある園内の案内板】

【石標の立つ園路】

【戦国武将の等身大パネル(庭園)】

【武者姿のフォトスポット(眺望)】

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✏️ まとめ

沼田城は、決して派手な観光地ではありません。天守はなく、残るのは土塁と堀、ひと棟の鐘楼、一本の老桜、そして数々の石碑です。けれど、その一つひとつに、沼田氏の興亡、真田の意地、小松姫様の覚悟、城を守り継いだ人々の想いが込められています。あらかじめ歴史を知って歩けば、何でもない斜面が要害に見え、古びた鐘が真田の世の響きに聞こえてきます。沼田城は、訪れる人の知識と想像力に応じて、いくらでも深く姿を変える「物語の城」です。白旗のように真田の記憶がはためくこの高台で、戦国の足跡をたどってみてください。

城は、訪れて、見て、そして想うことで、はじめて本当に生き返ります。あなたがこの高台に立ち、風に吹かれながら御殿桜を見上げるその瞬間に、沼田城の五百年の物語は、また新たな一頁を刻みます。次に沼田を訪れるときは、ぜひ桜の咲く季節に。御殿桜が石垣の上で薄紅にけぶる姿は、きっと一生の思い出になるはずです。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。天守なき城跡を「物足りない」と見るか、「物語に満ちている」と見るかは、訪れる人の心次第です。この記事が、あなたの沼田城めぐりを少しでも豊かなものにできたなら、語り部としてこれ以上の喜びはありません。それでは、現地でのよき一日を、心よりお祈りしています。

【青空に映える沼田公園の庭園】


🏯 史跡訪問記録 | 群馬県沼田市 | 沼田城 🏯

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※本記事は史跡訪問記録として作成しました。現地の状況は訪問時期により変わる場合があります。最新情報は沼田市・沼田市観光協会の公式情報でご確認ください。
※語り手「古天明平蜘蛛」は戦国茶器をモチーフにした架空のキャラクターです。

 

 

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