古天明平蜘蛛の史跡訪問記録

日本各地の史跡・城跡を実際に訪問した記録と歴史解説。

🗾 *史跡訪問記録* 名胡桃城(なぐるみじょう) ―― 天下を動かした小さな山城、その全貌 ――

名胡桃城(なぐるみじょう)

はじめに ― この城の「凄み」について

群馬県利根郡みなかみ町。

上越新幹線の上毛高原駅からほど近い国道17号沿いに、それはひっそりと存在しています。遠目には「小さな丘の上の城跡」にすぎないかもしれません。

しかし、この地に立って周囲の山々と利根川の流れを眺めたとき、歴史を少しでも知っている者なら必ずある感慨を覚えます。

 

「この場所から、天下が動いたのだ」と。

 

名胡桃城(なぐるみじょう)は、実際に使用されたのはわずか約10年という、日本の城郭史の中でも極めて短命な城です。

しかしその短い生涯の中で、真田昌幸様という傑出した武将の野望を育て、豊臣秀吉様による天下統一の最後の一手である「小田原征伐」の直接的な引き金となった、まさに歴史の震源地とも呼べる場所なのです。

 

今回の史跡訪問では、この名胡桃城について以下の内容を詳しくお伝えします。

城主の移り変わりを一覧表にまとめ、

真田昌幸様と沼田城との切っても切れない関係、

そして1590年の小田原征伐の誘因となった「名胡桃城事件」の経緯を

丁寧に解説します。

 


一、名胡桃城 基本情報

項目 内容
城名 名胡桃城(なぐるみじょう)
別名 名胡桃館(なぐるみやかた)
所在地 群馬県利根郡みなかみ町下津3437番地
築城年 伝承:明応元年(1492年)/史料上:天正7年(1579年)
廃城年 天正18年(1590年)
城の形式 連郭式山城(平山城)
指定区分 群馬県指定史跡(1949年)/続日本100名城 第115番
選定年 2017年(平成29年)4月6日
遺構 土塁・三日月堀・虎口・門礎石址・馬出し・各郭

名胡桃城址・沼田城址 史跡マップ

名胡桃城(なぐるみじょう)

沼田城(ぬまたじょう)~名胡桃城(なぐるみじょう)

地図:名胡桃城址 駐車場周辺

 


二、城主の移り変わり 一覧表

名胡桃城の支配者は、戦国期の激しい権力交代を反映するかのように、短期間のうちに幾度も変わっています。以下の表にその変遷をまとめます。

時期 年代 城主・城代 勢力 出来事
室町時代 明応元年(1492年)頃 名胡桃氏(名胡桃景冬伝承) 沼田氏一族 名胡桃館を築く(伝承)。沼田城の支城として機能
戦国初期 ~天正6年(1578年) 名胡桃氏 沼田氏系 室町時代から引き続き当地を支配
天正6〜7年 1578〜1579年 過渡期 後北条氏系・争奪期 上杉謙信様没後、武田・北条両氏が上野に侵攻
天正7年(1579年) 1579年 鈴木重則(主水)様 武田・真田氏 武田勝頼様の命を受けた真田昌幸様が名胡桃館を攻略。隣接地に新城を築き、城代として鈴木重則様を任命
天正8〜10年 1580〜1582年 鈴木重則様(城代) 真田昌幸様 昌幸様はこの城を前線基地として沼田城攻略に成功(天正8年)。武田氏滅亡(天正10年)後も真田氏が保持
天正10〜17年 1582〜1589年 鈴木重則様(城代) 真田昌幸様(独立大名化) 天正壬午の乱を経て真田氏が独立。以後たびたび後北条氏との抗争
天正17年11月(1589年) 1589年11月3日 中山九郎兵衛(寝返り後)→北条方占拠 後北条氏(猪俣邦憲様) 「名胡桃城事件」。猪俣邦憲様が偽書状で重則様を誘き出し奪取
天正18年(1590年) 1590年 (廃城) 豊臣秀吉様裁定 小田原征伐後、後北条氏滅亡。沼田領は全て真田氏安堵となり名胡桃城は廃城

三、名胡桃城の誕生 ―― 真田昌幸様の野望の起点

3−1 名胡桃城以前 ―― 室町時代の館と名胡桃氏

名胡桃城の歴史をさかのぼると、室町時代に行き着きます。伝承によれば明応元年(1492年)、沼田氏の一族である名胡桃氏が、利根川上流右岸の断崖に「名胡桃館」と呼ばれる居館を築いたのが始まりとされています。

この地は、越後(新潟)から三国峠を越えて下り、日光方面へ通じる三国街道の要所であり、清水峠への道、信濃に通じる鳥居峠への道も抑える交通の結節点でした。

名胡桃氏はこの地に居館を構え、沼田城の支城・前哨基地として機能させてきました。

しかし戦国の世の常として、この地域は上杉氏・武田氏・後北条氏という三大勢力の争奪の的となっていきます。

3−2 武田勝頼様の命と真田昌幸様の登場

時は天正7年(1579年)。

甲越同盟により上杉景勝様から東上野(上野東部)の割譲を受けた武田勝頼様は、後北条氏が抑えていた沼田城・吾妻地域を奪取すべく、家臣の真田昌幸様に命じます。

真田昌幸様とは何者か。

武田信玄様の薫陶を受け、「表裏比興の者」とさえ呼ばれた天才的な謀略家です。

信玄様亡き後も「真田」の家を守るため、北条・徳川・上杉という超大国の間を見事に泳ぎ切り、最終的には独立した大名の地位を確立した人物です。

後年、徳川家康様の大軍を二度にわたって上田城で撃退するという、日本の戦史に残る偉業も達成します。

この昌幸様が天正7年に上野に攻め込み、まず名胡桃館を攻略します。

小川城主の小川可遊斎様とともに名胡桃館を制圧し、その隣接地に新たな城郭を築きました。これが正式な「名胡桃城」の誕生です。

城代には、名胡桃館の旧主とも縁の深い鈴木重則(主水)様が任命されました。

3−3 沼田城攻略への前線基地として

昌幸様が名胡桃城を築いた目的は明確でした。

この城を足がかりとして、利根川を挟んで対岸に位置する沼田城を攻め取ることです。名胡桃城のささ郭に立てば、わずか5キロほど先に沼田城址方面が眺望できます。

物見台として最適なこの高台から、昌幸様の家臣たちは毎日のように沼田城の動きを監視していたことでしょう。

そして天正8年(1580年)、昌幸様の調略(謀略・工作)はついに実を結びます。

北条方の城代・金子泰清様に対して調略を仕掛け、また昌幸様の叔父・矢沢頼綱様が沼田に攻め込んで無血開城を実現。

武田氏は沼田城を手中に収めることに成功します。名胡桃城を築いてから実に1年足らずという電光石火の展開でした。

 


四、真田昌幸様と名胡桃城 ―― 沼田城との不即不離の関係

4−1 武田氏滅亡後の混乱と真田氏の独立

天正10年(1582年)3月、

織田信長様・徳川家康様連合軍の猛攻により武田勝頼様が天目山で敗死し、武田氏は滅亡します。主家を失った昌幸様ですが、ここで真価を発揮します。

同年6月の本能寺の変で信長様が討たれると、武田の旧領をめぐる「天正壬午の乱」が勃発。

後北条氏が沼田城を制圧する動きを見せる中、昌幸様は巧みな外交を展開し、結果として上杉氏の傘下に入ることで真田家の独立と所領の維持を図ります。

この判断力と行動の速さこそが、真田昌幸様という武将の神髄でした。

その後、徳川氏と後北条氏の両大国から圧力をかけられながらも、昌幸様は沼田・吾妻の地を手放すことなく守り続けます。

後北条氏が幾度となく沼田領に侵攻してきましたが、名胡桃城はその防衛の有力な拠点として機能し、北条軍を退け続けました。

4−2 豊臣秀吉様の惣無事令と沼田領裁定

天正15年(1587年)、九州平定を成し遂げた豊臣秀吉様は、関東・奥羽に向けて「惣無事令(そうぶじれい)」を発令します。これは大名間の私的な戦争を禁止する命令で、領土紛争は秀吉様の裁定に委ねるというものでした。徳川氏、後北条氏、真田氏はいずれも秀吉様の権威に服することになります。

そして天正17年(1589年)、懸案だった沼田・吾妻領についての裁定が下されます。昌幸様は「名胡桃には祖先の墳墓がある」として名胡桃城の死守を主張し(これはある種の「ハッタリ」でもあったと言われています)、最終的に秀吉様の裁定は次のようなものでした。

「利根川を境として、名胡桃城を含む西側一帯(全体の三分の一)は真田領。沼田城を含む東側一帯(全体の三分の二)は後北条領」

同年7月、秀吉様の家臣・津田盛月様と富田一白様、徳川家康様の家臣・榊原康政様が沼田に派遣され、沼田城は北条氏に引き渡されました。真田氏は手放した土地の代替地として信濃国箕輪を与えられ、一応の決着がついた……はずでした。


五、名胡桃城事件 ―― 天下を動かした謀略

5−1 猪俣邦憲様の蛮行

秀吉様の裁定からわずか半年後、天下を揺るがす事件が起きます。

天正17年(1589年)11月3日、沼田城代として入城していた後北条氏の家臣・猪俣邦憲様が動きました。猪俣様は、名胡桃城代の鈴木重則様の家臣である中山九郎兵衛を内応(寝返り)させ、偽の書状を作成します。その内容は「急用あり、上田城(昌幸様の本拠地)に来るよう」というものでした。

この偽書状に騙された鈴木重則様は、城を留守にして上田城へ向かいます。その隙に猪俣様は軍勢を差し向け、名胡桃城を占拠してしまいます。

道中の岩櫃城で計略に気づいた重則様は、急いで城に戻ろうとしましたが時すでに遅し。城は既に北条方に占拠されていました。不覚を深く恥じた重則様は、沼田城下の正覚寺において切腹して果てました。城代として昌幸様に仕え、その信頼に応え続けてきた武将の、無念の最期でした。

重則様の死後、その息子・鈴木右近様は真田昌幸様に引き取られ、後に昌幸様の長男・真田信之様を長年にわたり支え続ける忠臣となります。信之様の死の二日後に殉死するほどの絆を結んだとも伝わります。まさに主君への忠義は親から子へと受け継がれたのです。

5−2 秀吉様の激怒と小田原征伐の決断

この「名胡桃城事件」の報告を受けた真田昌幸様は、直ちに寄親(上位の後見)である徳川家康様を通じて秀吉様に訴え出ます。

秀吉様の怒りは凄まじいものでした。天正17年(1589年)11月21日付で真田昌幸様に書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」という強い意志を示します。24日には北条氏との手切れ書(絶交宣言)を北条氏や諸大名に配布しました。

なぜ秀吉様はここまで激怒したのでしょうか。それには二つの理由があります。

一つ目は、自らが発した「惣無事令」への明白な違反です。大名間の私的な戦争を禁じ、全ての紛争を自分の裁定に委ねるよう命じた秀吉様にとって、この行為は権威への直接的な挑戦でした。

二つ目は、後北条氏が秀吉様の上洛要請を再三にわたって無視し続けていたという背景があります。秀吉様はかねてから後北条氏の処置に頭を悩ませており、名胡桃城事件は「北条を討つ大義名分」として恰好の口実となったのです。

後北条氏の当主・氏直様は12月7日付の書状で「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」と釈明しましたが、秀吉様はこれを受け入れませんでした。

5−3 天正18年の小田原征伐と後北条氏の滅亡

翌天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉様は総勢22万とも言われる大軍を率いて出陣します。これが世に言う「小田原征伐」です。

水陸両面からの包囲攻撃の前に、難攻不落を誇った小田原城も7月に開城を余儀なくされます。後北条氏は100年の関東支配に終止符を打ち、ここに滅亡しました。

秀吉様はさらに伊達政宗様を服属させ、奥羽の問題も片付けます。日本の天下統一が成し遂げられた瞬間でした。

その後、全ての沼田領は真田氏に安堵されました。昌幸様の長男・真田信之様が沼田領2万7,000石を領することになります。

そして名胡桃城は、その役目を終えて廃城となりました。実際に使われたのは天正7年(1579年)の築城からわずか約10年間。しかしその10年間で、この小さな山城は日本の歴史を根本から変えてしまったのです。


六、名胡桃城の構造 ―― 天然の要塞が生んだ連郭式山城

6−1 立地の妙 ―― 三方が絶壁の要害

名胡桃城は利根川上流の右岸(西岸)断崖部に位置しています。利根川と赤谷川の合流地点に近く、三方が切り立った天然の断崖によって守られた自然の要塞です。北東には利根川を挟んで明徳寺城が対峙しています。

この立地の特徴は、攻める側にとって正面からの攻撃が極めて困難であることです。切り立った崖を登って攻撃しようとすれば、守備側から鉄砲・弓矢の格好の的になります。少ない兵力でも多数の敵を寄せ付けない「天然の要塞」として、昌幸様はこの地形を最大限に活用しました。

 

 

6−2 連郭式の縄張り

名胡桃城の縄張り(城の設計・構造)は「連郭式(れんかくしき)」と呼ばれる形式です。馬出し(うまだし)から三郭・二郭・本郭・ささ郭と、主要な郭(くるわ=城の区画)が直線状に並んでいます。

各郭の間には堀切(ほりきり)が設けられ、土橋や木橋で連絡していました。城跡にはこれら堀切や土橋が現在も良好な状態で残されており、丸馬出(まるうまだし)や食い違い虎口(くいちがいこぐち)などの遺構を示す標識も立てられています。

廃城となった後、後世にほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好な状態で保存されているのが大きな特徴です。

近年の発掘調査では、土塁址・三日月堀・虎口・通路・門礎石址・掘立柱建物址などの重要な遺構が多数確認されています。

主な郭の説明は以下の通りです。

 

 

般若郭(はんにゃくるわ)


城の入口に相当する郭で、現在は駐車場として整備されています。かつての名胡桃館(名胡桃氏の館)があった場所とされ、最も広い区画です。

 

三郭(さんのくるわ)


般若郭の奥に続く郭。馬出しや堀切などの防御施設が設けられていました。

 

 

二郭(にのくるわ)


三郭からさらに奥に位置する郭。本郭への最後の防衛線として機能しました。

 

本郭(ほんくるわ)


城の中心となる最も重要な郭。現在は中央に石碑が建立されています(平成27年整備)。ここからの眺望は素晴らしく、沼田城址方面を一望できます。

 

ささ郭


本郭の奥に位置する郭。

袖郭(そでぐるわ)とも関連し、眺望が特に良い場所です。

敵の動きをいち早く察知するための物見台として機能したと考えられています。ここからは利根川を挟んで北東に、かつて北条方が支配した沼田城址方面を見渡すことができます。

 

 


七、観光案内 ―― 名胡桃城址の歩き方

7−1 基本情報

項目 内容
正式名称 群馬県指定史跡「名胡桃城址」
所在地 群馬県利根郡みなかみ町下津3437番地
案内所住所 群馬県利根郡みなかみ町下津3462-2
電話番号 0278-62-0793(名胡桃城址案内所)
城跡見学 無料・散策自由
案内所入場 無料

7−2 案内所の営業時間・定休日

施設 営業時間 定休日
名胡桃城址案内所 9:00〜16:00 木曜日・年末年始
歴史ガイド案内 9:30〜15:30 火・木曜日(その他不定休・冬季不定休あり)

※案内所内には、城の歴史を紹介するビデオ(約20分)や資料展示があります。先にビデオを視聴してから城跡を歩くと、理解がぐっと深まります。

7−3 アクセス ―― 電車・新幹線

上越新幹線・上毛高原駅から

  • タクシー利用:約6〜8分(料金目安:1,500円前後)
  • 徒歩:約45〜50分(約3.7km)
  • ※上毛高原駅には路線バスもありますが、城址方面への直通便は少ないため、タクシー利用が便利です。

JR上越線・後閑駅から

  • タクシー利用:約7分
  • 徒歩:約40分
  • ※後閑駅は普通列車のみ停車するローカル駅です。タクシーの台数が少ない場合があるため、事前に予約しておくと安心です。

7−4 アクセス ―― 車

関越自動車道「月夜野インターチェンジ」から車で約5〜6分(約3km)。

インターを降りて新潟方面(国道17号)に向かうだけです。城址は国道17号線沿いにあるため、カーナビなしでも迷わずにたどり着けます。案内看板も設置されています。

7−5 駐車場

駐車場 料金 備考
般若郭跡駐車場 無料 案内所脇。広くて整備されています

案内所(名胡桃城址案内所)の横に広い無料駐車場があります。

これが般若郭跡を利用した駐車場です。

大型バスも駐車可能な広さがあります。

7−6 見学の目安

  • 所要時間:30〜60分(ボランティアガイド付きの場合は60〜90分)
  • 難易度:ほぼ平坦な道のり。特別な登山装備は不要
  • 服装注意:夏場は草が生い茂るため虫除けスプレーがあると快適
  • 熊出没注意:2025年秋に熊の目撃情報あり。訪問前に最新情報をご確認ください

7−7 御城印について

種類 素材 価格
名胡桃城(和紙タイプ) 和紙 各300円(税込)
名胡桃城(木製タイプ) 木製(字体等は和紙タイプと同様) 各300円(税込)

販売場所は案内所のみ。郵送対応は行っておらず、来城された方への現地販売限定です。

7−8 周辺のおすすめスポット

沼田城址(沼田公園)


名胡桃城から車で約15分。真田昌幸様・信之様ゆかりの地で、小松姫様の逸話でも有名。沼田市観光協会の案内所があり、続日本100名城(第116番)のスタンプも押せます。

月夜野郷土歴史資料館


上毛高原駅近く。名胡桃城の精巧な模型が展示されており、城の全体像を立体的に把握できます。

岩櫃城


真田昌幸様ゆかりの三名城の一つ(岩櫃城・名胡桃城・沼田城)。みなかみ町から車で約30分。険しい山城の雰囲気を楽しめます。

7−9 訪問時の注意事項

  • 城跡内は一部、急な崖や段差があります。足元に注意してください
  • 雨天後はぬかるんでいる箇所があります。滑りにくい靴での来訪をおすすめします
  • 夏場は草が多く、特に夕方は蚊や虫が多くなります
  • 冬季は積雪・凍結の可能性があります。案内所も不定休となる場合があります
  • クマの出没情報がある場合は入城を控え、現地の案内掲示を必ず確認してください
  • 案内所には飲食スペース(有料カフェ)もありますが、席数が少ないため混雑時はご注意ください

八、名胡桃城が続日本100名城に選ばれた理由

平成29年(2017年)4月6日、名胡桃城は「続日本100名城」の第115番として選定されました。全国に数多ある城跡の中で、なぜこの小さな山城が選ばれたのでしょうか。

その理由は遺構の保存状態の良さにあります。

廃城後にほとんど手が加えられなかったため、土塁・三日月堀・馬出しなど、戦国時代の築城技術を今に伝える遺構が比較的原型を保っています。

発掘調査によって重要な遺構が次々と確認されており、学術的価値も高い城跡です。

そしてもちろん、その歴史的重要性も大きな選定理由です。

豊臣秀吉様の天下統一という日本史の重大な転換点と直接リンクする城址として、その歴史的意義は規模の大小を超えています。

続日本100名城のスタンプは、案内所にあります。

 


まとめ ―― 名胡桃城が語りかけること

名胡桃城は小さな城です。

城郭そのものの規模で言えば、大坂城や姫路城とは比較になりません。しかしこの小さな城が持つ歴史的重量は、日本のどんな大城郭にも劣らないものがあります。

真田昌幸様という天才的な武将の野望を育て、鈴木重則様という誠実な武将の無念の死を見届け、猪俣邦憲様の一場の謀略が引き金となって豊臣秀吉様の天下統一という歴史の巨大な歯車を動かした。

そのすべての舞台となったのが、利根川の断崖に立つこの小さな山城です。

城跡に立ってあたりを見渡せば、利根川の流れ、遠くの山々、そしてかつて昌幸様が虎視眈々と攻略を狙った沼田方面が眺望できます。

歴史の重みを感じながら静かに歩くひとときは、

きっと忘れられない体験となるはずです。

名胡桃城はただの「城跡」ではありません。

それは、戦国から天下統一へという日本史の転換点に立ち会った生きた証人。

ぜひ一度、この地を訪れ、その空気を全身で感じてみてください。


訪問者へのまとめ情報

カテゴリ 詳細
住所 群馬県利根郡みなかみ町下津3437番地
案内所電話 0278-62-0793
案内所時間 9:00〜16:00(木曜・年末年始休)
入場料 無料
駐車場 無料(般若郭跡)
電車 上毛高原駅・後閑駅からタクシー約7分
月夜野IC から約5分(国道17号沿い)
所要時間 30〜60分(ガイド付きは60〜90分)
御城印 各300円(和紙・木製の2種)
備考 熊出没情報あり。最新情報を事前確認のこと

九十九茄子と共に撮影

 


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