古天明平蜘蛛の史跡訪問記録

日本各地の史跡・城跡を実際に訪問した記録と歴史解説。

🗾*史跡訪問記録*長篠の戦い 織田信長本陣跡――織田信長様の動きを中心に―

写真で見るポイント:織田信長本陣跡は、単なる記念碑ではなく、設楽原の戦場をどう見渡せるかが重要です。写真を撮るときは石碑だけでなく、周囲の地形や視界の広がりも一緒に確認すると、本陣としての意味が伝わりやすくなります。

 

訪問メモ|長篠の戦い・織田信長本陣跡を歩く前に

訪問日:2026年1月  
所在地:愛知県新城市周辺  長篠パーキングエリア近く
主な見学地:織田信長本陣跡、設楽原古戦場、馬防柵、長篠城跡、長篠城址史跡保存館  
見学時間の目安:織田信長本陣跡だけなら約15〜30分。設楽原の馬防柵や長篠城跡、資料館まで合わせるなら2〜3時間ほど見ておくと安心です。  


アクセス:車の場合は新東名高速・新城ICから長篠城址史跡保存館方面へ向かうと分かりやすいです。電車の場合はJR飯田線「長篠城駅」から長篠城跡方面へ徒歩移動できますが、本陣跡や設楽原まで回るなら徒歩距離が長くなるため、時間に余裕が必要です。  
駐車場:長篠城址史跡保存館には無料駐車場があります。織田信長本陣跡周辺は、長篠設楽原PA下り側からも近い場所にあるため、車で訪れる場合は事前にルート確認がおすすめです。  PAエリアから織田信長本陣跡へ入れます。

トイレ:長篠城址史跡保存館や長篠設楽原PAなど、施設側で済ませておくと安心です。古戦場跡を歩く途中にはトイレが少ない場所もあります。

 
服装:設楽原周辺は屋外を歩くため、歩きやすい靴がおすすめです。夏は日差し、冬は風に注意が必要です。  

長篠の戦い ―― 織田信長軍の動きとその戦略

語り手:古天明平蜘蛛

 


■ はじめに ―― 本陣跡に立ち、戦の全体像を見渡す

私は古天明平蜘蛛。

今回訪れたのは、愛知県新城市に残る長篠の戦い関連史跡のひとつ、織田信長本陣跡です。

現地に立ってまず感じたのは、ここが「前線で武勇を示す場所」ではなく、戦場全体を見て軍を動かすための場所だったということです。

長篠の戦いは鉄砲三段撃ちの印象が強く語られますが、実際に設楽原の地形や本陣跡の位置を見ると、信長様がどこで戦い、どこで戦わないかを冷静に選んでいたことが伝わってきます。

この記事では、織田信長本陣跡の見どころ、を紹介し、そのうえで長篠の戦いにおける信長様の動きを時系列で整理します。

本稿では、天正3年(1575年)の長篠の戦いについて、
織田信長軍の動きを軸に、戦前・戦中・戦後を時系列で詳しくお話しいたします。

写真で見るポイント:現地では、設楽原の広がりと起伏に注目したいところです。長篠の戦いは「鉄砲の勝利」と言われがちですが、実際には地形、柵、湿地、兵の配置が組み合わさった戦いでした。


第一章 戦の発端 ―― 武田軍の西上と長篠城包囲

## おすすめの回り方|長篠城跡・設楽原・織田信長本陣跡

長篠の戦いを現地で理解するなら、織田信長本陣跡だけを単独で見るより、長篠城跡、設楽原、馬防柵と合わせて回るのがおすすめです。

最初に長篠城址史跡保存館へ行くと、戦いの全体像や長篠城包囲の流れをつかみやすくなります。その後、長篠城跡を歩くと、奥平信昌様がなぜここで粘ったのかが地形から見えてきます。

次に設楽原へ移動し、馬防柵や古戦場の地形を確認します。ここで初めて、武田軍の突撃を受け止めるために、織田・徳川連合軍がどのような場所を選んだのかが分かります。

最後に織田信長本陣跡へ向かうと、信長様が前線に立つ武将ではなく、戦場全体を制御する指揮官として動いていたことが理解しやすくなります。資料館、城跡、馬防柵、本陣跡の順に見ると、年表ではなく地形で長篠の戦いを読めるようになります。

 

天正3年5月、武田勝頼様は父・武田信玄様の遺志を継ぎ、再び西上作戦を開始されました。
その矛先は、徳川家康様が支配する三河国でございます。

その要衝となったのが長篠城
城主・奥平信昌様は、わずかな兵でありながら堅固な防御を行い、武田軍の猛攻に耐えました。
しかし兵糧は尽きかけ、もはや救援なしでは落城は時間の問題でございました。

奥平信昌様は、命を懸けて織田信長様・徳川家康様へ救援を求めます。
この知らせが、戦国史を大きく動かす決断を信長様に促すこととなります。


第二章 織田信長様の決断 ―― 「救援」ではなく「決戦」

信長様は、長篠城救援を単なる防衛戦とは捉えませんでした。
この時点で信長様は、
「武田軍主力をこの地で撃滅し、武田家の軍事的威信を根底から崩す」
という構想を抱いておられたと、私は感じております。

その証が、動員兵力でございます。
織田信長様は、およそ3万ともいわれる大軍を率い、岐阜城を出陣されました。
これは救援に必要な兵力をはるかに超える規模であり、
最初から野戦による決着を視野に入れていた証左でございます。


第三章 戦場選定 ―― 設楽原という舞台

信長様が戦場として選ばれたのは、長篠城周辺ではなく、
城の南西に広がる設楽原でございました。

設楽原は、
・広く開けている
・緩やかな起伏がある
・河川と湿地が点在する

という地形であり、騎馬の機動力を最大の武器とする武田軍にとって、
決して理想的とは言えない土地でございます。

信長様は、この地形を見抜き、
「武田軍を城攻めから引き離し、設楽原で受け止める」
という戦略を描かれました。


第四章 織田信長本陣 ―― 全軍を統べる位置

現在「織田信長本陣跡」とされる地点は、
設楽原の中でもやや高台に位置し、戦場全体を見渡すことができます。

信長様はここに本陣を構え、
・中央に織田軍主力
・左翼に徳川家康様軍
・右翼に織田方諸将

という布陣を敷かれました。

重要なのは、信長様が最前線に立つのではなく、
全軍の動きを把握し、指示を出す位置に身を置かれた点でございます。
ここに、信長様の戦い方が端的に表れております。

実際に本陣跡に立つと、信長様がここを選んだ理由は「戦場を直接見るため」だけではなかったように感じます。

前線に近すぎれば全体を見失い、遠すぎれば戦況の変化に対応できません。

その中間にある本陣跡は、戦いを一段引いて見るための場所だったのだと思います。

現地では、石碑だけを見て終わるのではなく、どの方向に設楽原が広がり、どの方向に長篠城があるのかを意識すると理解が深まります。

本陣跡は「信長様がいた場所」というより、「信長様が戦場をどう見ていたか」を考える場所です。

 


第五章 馬防柵の構築 ―― 戦う前に勝つ準備

織田信長軍の動きで、最も象徴的なのが馬防柵の構築でございます。

設楽原の前面に、
・木材を打ち込んだ柵
・複数列に及ぶ防御線

を築き、その背後に鉄砲隊を配置する。
この準備は、戦闘開始直前ではなく、到着と同時に進められました。

信長様は、
「武田軍は必ず騎馬突撃を行う」
と確信されており、それを正面から受け止める策を選ばれたのです。

 

設楽原で馬防柵を見ると、長篠の戦いが単なる火力勝負ではなかったことが分かります。

柵は武田軍を完全に止める壁というより、突撃の速度を落とし、隊列を乱し、鉄砲や槍で対応しやすくするための装置だったと考えると理解しやすいです。

現地で見るべきポイントは、柵そのものの形だけではありません。

柵の前後の高低差、周囲の見通し、足元の地形をあわせて見ることで、なぜこの場所で武田軍を迎え撃ったのかが見えてきます。


第六章 鉄砲隊の編成 ―― 個から組織へ

信長様は鉄砲を「強い武器」としてではなく、
統制された兵器体系として運用されました。

鉄砲隊は、
・射撃
・装填
・待機

を分担し、継続的に弾幕を張る体制が整えられておりました。
いわゆる三段撃ちについては後世の表現でありますが、
少なくとも連続射撃による圧力が意図されていたことは明白でございます。


第七章 戦闘開始 ―― 武田軍の突撃と織田軍の対応

武田勝頼様は、柵の存在と銃撃を承知の上で、突撃を命じられます。
山県昌景様、馬場信春様、内藤昌豊様ら、
武田家屈指の猛将が次々と前線に立たれました。

しかし、
・馬防柵
・湿地
・鉄砲の集中射撃

これらが重なり、突撃は次第に勢いを失っていきます。

信長様は本陣から状況を見極め、
「柵を越えさせぬこと」
「無理に追撃しないこと」
を徹底されました。


第八章 信長様の冷静さ ―― 深追いをしない判断

戦況が明らかに織田・徳川連合軍有利となっても、
信長様は感情に任せた追撃を禁じられました。

目的は敵の殲滅ではなく、
武田軍の戦力と神話を崩すこと
ここに、信長様の戦争観がはっきりと表れております。


第九章 戦後 ―― 武田家への決定的影響

長篠の敗北により、武田家は多くの重臣を失い、
軍事的再建は極めて困難となりました。

一方、織田信長様はこの勝利によって、
・中央政権への道を確かなものとし
・戦の常識を書き換え

天下統一への歩みを加速させていきます。


終章 本陣跡に立って思うこと

 

織田信長本陣跡は、長篠の戦いを「鉄砲の数」だけで理解していた人ほど、現地で印象が変わる場所だと思います。

実際に歩くと、戦いの勝敗は武器だけではなく、地形の選び方、敵の動かし方、味方の配置、そして無理に追撃しない判断によって作られていたことが分かります。

長篠城跡、設楽原、馬防柵、本陣跡を順番に見ると、信長様の戦い方がかなり立体的に見えてきます。

資料館で知識を入れ、現地で地形を確認し、本陣跡で全体を振り返る。

この順番で歩くと、長篠の戦いは年表の中の出来事ではなく、現実の土地で起きた戦いとして理解しやすくなります。

 

現地で印象に残ったのは、織田信長本陣跡が派手な観光地ではなく、静かに戦場を見下ろす場所だったことです。

ここに立つと、信長様の強さは前線で斬り結ぶ武勇ではなく、地形を読み、準備を整え、味方を統制する力にあったのだと感じられます。

 

## 参考資料

・新城市公式サイト「長篠城址史跡保存館」  
・長篠城址史跡保存館 現地展示  
・設楽原歴史資料館・長篠城址史跡保存館 共通入館案内  
・長篠・設楽原古戦場 現地案内板  
・訪問時に撮影した写真と現地確認情報